『ノート・非ノート』 岡村洋次郎

『ノート・非ノート』 岡村洋次郎

『ノート・非ノート』 岡村洋次郎
 曇り、-20℃、昼のアンガラ河。
あたり一面靄が立ち込めて河面が見えないぐらいである。水温が少し高い為であろうが、近づいてよく見ると、大量の水が勢いよく流れている。
案内されて、ロシア正教会の内部に入れば、暖かい信仰心の濃密な空間に一瞬にして擁かれてしまう。一歩戸外に踏み出せば、シベリアでは、圧倒的な自然が押し寄せて来る。
 
イルクーツクの郊外の日本人抑留者の共同墓地を訪う。記念塔の雪を払う。それからバイカル湖の近く山林の斜面にある抑留者の共同墓地。ここでは、記念碑に20名の名前が記されていた。ローマ字から起こしたのか、明らかな間違いは訂正しつつ、ひとりひとりのその名を読み上げさせて戴いた。

バイカル湖の展望台にスキーリフトで上がる。
寒風の中、雲の背後から洩れ差す陽の光は、神秘的という言葉が修飾的にならないほど、その厳しい剥き出しの自然の美しさが、なぜか、ある倫理的重量としてからだに残る。 

石原吉郎さんが体験した、<シベリアのタイガ(森林)の人間を圧する沈黙>はしかし、彼が言葉を恢復して、帰国後回想した時に、彼の記憶の底から(その時は失語状態であったにもかかわらず)浮かび上がってきた自然の姿ではなかったろうか。


その時彼は、大自然が、黙して語れない自然が、
人間に語ることを要請して来くるのを実感した。

しかし、ふたたび言葉を持つとは、「死刑宣告」である。

その壁を突破し得るのは、既に言葉ではない。
世界もろともの自爆そのものである。

それにしても、世界は失速していないだろうか?
消え入るような消滅が、それでも残っている・・・。

そこのところを、石原さんはいくつかの詩に託した。

しかしなお、どのような形象化も許されていない。

人間でなくなった石原さんは、形象化するしかなかったという悲惨を生きた。

<ほんとうのこと>は、彼を避けて通るしかなかった。
彼には破滅しかないのだから。

言葉を失ったとき、
彼は全世界を喪失していた。

    それでも彼は、ある証言を遺した。


伝え得ない証言。