【 宇喜多秀家 流罪その後】日本史跡研究会々長blog紹介 | 徳川わ廣 のブログ

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「宇喜多秀家墓所(東京都板橋区)」
17s睦月廿八日)

日本史跡研究会々長blog
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14622932.html
2017/1/24
書庫東京都の史跡

 【宇喜多秀家墓所】

所在地: 板橋区板橋4-13東光寺境内



 慶長5年(1600)、関ケ原の戦いにおいて西軍の副大将として徳川家康と戦った宇喜多秀家は、敗戦後、伊吹山中に逃げ込み、そこで落武者狩りの矢野五右衛門に見つかるも、五右衛門は秀家を哀れに思い40日余匿った。


 その後、薩摩国主・島津義弘などを頼り落ち延びたが、慶長8年(1603)、島津忠恒によって家康に身柄を引き渡された。
 忠恒、縁戚の前田利長の懇願によって死罪は免れ、慶長11年(1606)、八丈島へ公式史上初の流人として配流されている。

 元和2年(1616)、秀家の刑は解かれ、前田利常からは10万石を分与するから大名に復帰してはと勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったという。

 明暦元年(1655)11月20日、死去。享年は84であった。


 さて、八丈島で死去した宇喜多秀家の墓がなぜ?板橋の地にあるのか?
 八丈島で秀家は2人の男子を授かり、長男秀高(孫九郎)から2家が、次男秀継(小平治)から5家が分家し、加賀前田家の援助を受けて八丈島で存続しています。

 明治2年(1869)4月、明治新政府から八丈島の宇喜多一族赦免の布令が発せられ、明治3年(1870)8月、前田家の差し回した船で一族71名が東京へ入りました。

 そして、板橋にあった加賀藩江戸下屋敷に住宅を与えらえています。

 明治6年(1873)、明治新政府は宇喜多家に板橋19、900坪の宅地を与え、子孫は秀家の墓をこの宅地内に建立したとされます。

 その後、区画整理や第二次大戦の戦災の影響もあり、昭和33年(1958)、宇喜多一族の菩提寺である東光寺境内に移されました。

 (参考資料)
  現地案内板




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