蒙古襲来 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 中国のほぼ全土を征服し、朝鮮半島をも支配下に収めたモンゴル帝国(のちの元)皇帝フビライの国使が、文永5年(1268)1月、九州に上陸した。朝貢を求めるモンゴルの国書は、大宰府から鎌倉へ届けられ、その後、京・鎌倉往還を通って京の朝廷にも伝えられた。

 この年の3月、八代執権に就任したのが、弱冠18歳の北条時宗である。時宗は、その後何度も送られてきた国書に対して返事を拒絶、全国の御家人に、決戦の準備を呼びかけた。最初の国使来日から6年後の文永11年、ついに元軍は対馬(つしま)、壱岐(いき)を侵略し、博多にも上陸した。しかし夜半、船に引き揚げた元軍は、偶然にも吹き荒れた暴風雨によって壊滅した。

 その後、時宗は元軍の再来に備えて鎌倉から指令を出した。九州各地の御家人に博多湾の沿岸20㎞にわたって石築地を積ませ、奇襲に備えたのであった。

 7年後の弘安4年(1281)、果たして14万の兵士と4000隻の艦隊を率いた元軍が再来。時宗は腹心の部下・安達盛宗を九州に派遣し御家人たちを指揮させた。自らは鎌倉から命令を送り、宗から招いた高僧無学祖元(むがくそげん)の教えを励みに決断を下していった。しかし、「神風」と呼ばれた大型台風により、元軍は再び海中に消えた。以後、元軍が日本を襲うことはなかった。両国の戦死者を弔うため、時宗は翌年、無学祖元を開山に、円覚寺を建立した。

 現代でも、日本の周辺国であるロシアや中国のように他国への侵略を虎視眈々と狙っている国があります。そのような国に対しては、もちろん「話し合い」だけで解決することはありません。従って、「自国防衛」ということが大前提になります。侵略国は、恥などという観念はありません。欲しいものを手に入れればよいのです。それに対して、国連の無能さは既に自明ですから、日本も「若き執権」待望論が出てきても良いのではないでしょうか。