熊本 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 近世の熊本藩は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が行った九州統一に始まるといわれている。島津氏を押さえ、九州を平定した秀吉は、肥後国支配をかつて同輩だった佐々成政に任せた。成政は天正7年、織田信長に越中国(富山城)を与えられ、その際には、富山城の整備から治水工事、さらに行政の整備にも力を注ぎ、見事な政治手腕を見せた武将だった。秀吉は肥後国を゛難治の国”とみなし、統治の難しさを見通していたため成政を送り込んだ。肥後に入った成政が秀吉の命を受けて最初に行ったこと、それが世に言う「太閤検地」であった。しかし、この検地は国衆たちから土地を奪い、農民たちには土地を与える代わりに税を増やす目的であったので、国衆や農民は猛反発した。そして、国衆が組織した反対闘争はやがて一揆となり、肥後国はこれによって大きく揺れ動いた。半年後に一揆は鎮静に向かったが、それは多くの国衆が見せしめのために殺されたからであった。一方、佐々成政は、一揆を誘発して秀吉の面目を潰した罪に問われ、天正16年閏5月、尼崎で切腹を命じられた。

 この後に入国したのが、加藤清正である。清正は、熊本城築城に伴い、まず城下町の整備に努めた。もちろん検地も行ったが、まず農業活性化のために灌漑用水の供給にも尽力した。さらに、坪井川河口の小島津(おしまつ)から城下町まで水路を開いたため、物資輸送が円滑になり、城下町には市場なども立つようになった。

 また、清正は熊本城内に120ヶ所の深井戸を掘らせ、保存食確保のために多くの銀杏の木を植えさせた。これは朝鮮出兵で蔚山(うるさん)城に籠城した際、水不足と食糧不足から多くの家臣を失った苦い経験に基づいたものといわれる。一方、河川の堤防工事や参詣路の整備なども行われた。

 加藤清正が没すると、寛永9年(1632)、加藤家は二代で改易。その後に入国したのが細川忠利であった。細川家はその後240年に及ぶ治世を一族でになった。外様大名にもかかわらず、細川家に対する幕府の信頼は絶大であった。

 肥後藩主は、薩摩の島津氏への押さえである。秀吉の九州討伐の際、一度は降伏した島津氏ではあったが、着々と勢力を盛り返し、再起の時を狙っているようであった。徳川家がいかに島津を恐れ、また細川家にどれほど厚い信頼を寄せていたかは、細川家に熊本城と八代城の二城の所有を認めていたことからも明らかである。一国一城の時代に、これを許されていたのは、九州では細川家だけであった。

 以上は、松本寿三郎氏(崇城大学総合教育教授)の文章による。

 藩主の領国の経営は簡単ではなかったはずです。厳しければ領民の反発が生じ、甘ければ経済活動が不活発になるでしょう。よく言われる、「生かさず殺さず」という言葉は真実ではなく、領民を第一に考えた経営をすることで、経済も活性化するはずです。これは、いつに時代にも通用することで、人を活用するには、「ニンジン」が大切だということだと思います。