姉のオリガと同様、タチアナも年頃になると縁談の話が持ち上がった。有名なのは、セルビア国王ペータル1世の世継ぎでありタチアナより9歳年上のアレクサンダル王太子(後のアレクサンダル1世)との縁談である。


ペータル1世は息子の花嫁としてタチアナを望み、そのアレクサンダルもまた、美人の誉れ高いタチアナに好意を寄せていたという。そうした好意を彼が隠すこともできずにいたのか、とある昼食会でアレクサンダルがタチアナを多く見つめていることに、同席していたニコライ2世は気づいている。

もっとも、この縁談は第一世界大戦の開始によって交渉が終了となったが、その後もアレクサンダルとタチアナは文通を続けていた。

↑姉オリガとともに。

しかし、ロシア革命から一年後の1918年7月、21歳のタチアナはエカテリンブルクで家族、従者と共に銃殺された。ニコライ2世の子女達の中で一番先に命を落としたのは彼女だと言われている。

その後、タチアナの死を知ったセルビア王太子・アレクサンダルは取り乱し、彼女の死を大変嘆いたという話が伝わっている。

ちなみに、タチアナの死から16年後、アレクサンダルはフランスのマルセイユ訪問時に、何の因果かタチアナと同じく銃によって射殺されるという最期を迎えた。 

タチアナはアレクサンダルのことをどう思っていたのだろう。文通をしていたということからしても、彼女は決してアレクサンダルを悪く思っていなかったのではないだろうか。もっとも、彼女は第一世界大戦中に看護したドミトリー・マラマという若いロシア人将校に恋していた。そのマラマから二度も子犬を贈られたほどである。もちろん、だからといってタチアナがマラマ将校と身分違いの結婚ができたわけではないが…。
もし、タチアナが早々とアレクサンダルと結婚してセルビア王太子妃となっていたら、21歳という若さで亡くなることはなかっただろう。彼女の死で唯一慰められる点は、彼女を自分の妃に望んだアレクサンダルの悲嘆にあるかもしれない。


第一次世界大戦の開戦後、母アレクサンドラ皇后や姉オリガ皇女と共に従軍看護婦として兵の看病に従事し、その献身的な姿と美貌で兵士達から愛されたタチアナ皇女。

写真で見る限り、四姉妹で一番の美人と言われたタチアナの美しさは、顔立ちだけでなく、全身から漂う気高い美という印象を受ける。いわゆる、クールビューティー系の美人であり、写真だけでは表すことのできない美貌の持ち主だったと個人的に思う。


何度も繰り返すが、ロシア革命後のニコライ二世一家の殺害という惨劇を思えば、21歳と結婚適齢期であった彼女が早くに結婚していれば一家の悲劇に巻き込まれることはなかったに違いない。

また、何の罪もない4人の皇女や13歳の皇太子までを殺害したボリシェヴィキのやり方は到底納得できるものではない。皇子女を生かすことで後に帝政派によって担がれる危険性を考えたのかもしれないが、皇太子のアレクセイは、血友病で20歳まで生きられたかどうか危なかった。それに革命で皇女まで殺すのは、他に例がない。かのフランス革命でさえ、ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻の第一王女マリー・テレーズは生き残っている。それ故に、ロシア革命後のソ連のロシア皇族虐殺は残忍さが際立ってるとしか言いようがない。