演劇科の歴史 | 桐朋学園演劇科

演劇科の歴史

 昭和30年の後半のことです。当時千田是也先生を頂点とする劇団・俳優座には、昭和24年11月に発足した俳優座養成所という俳優の養成機関がありました。 そこからは、大勢の演劇人が排出され、各分野で今でも活躍されています。しかし、当時の千田先生の頭の中には、「いつまでも俳優養成所的なやり方だけではだめだ、やはり俳優専門家として、もっともっと広い意味での学問を身に付けさせていきたい。俳優養成所は兎に角ここまでやって来たけれど、これからは更に一歩前進し、『大学』としての位 置付けをし、それに相応しい内容の教育を加味していきたい。新しい演劇教育の為に独立した演劇大学を作りたい。」その願いがいつもありました。

 ある日、千田先生 は親交のあった安部公房先生や、田中千禾夫先生に相談を持ち掛けました。その結果 、「音楽で名を成している大学、つまり芸術教育に非常な熱意を持っている桐朋に教育の場をお借りできる様、お願いしたらどうだろう。」こんな安部先生の意見で話がまとまり、生江義男先生に働き掛けを行った訳です。生江先生は話を聞き「音楽と並ぶ演劇、これはやりようによってはユニークなものができる。」こんな強い関心と興味を持たれました。更に田中先生は、常に日本語に対して独特で、しかも先見性のある考えを持っておられました。「美しい日本語を広め、それを伝えていくには、演劇を通 して可能であり、美しい日本語が使えるような俳優を育ててみよう!」そうした田中先生や千田先生の考え方に、生江先生はおおいに惹かれるものを感じとったのでした。それが演劇科を作るそもそものきっかけとなったのです。
 日本における演劇文化の中で、俳優の役割を考えた場合に、本格的な俳優を大学で養成する大学があってもいいのではないか、むしろ無いのが不思議なくらいだ。という様な考え方が設置対策会議の中でだんだんと盛り上がっていきました。

 しかし、当時の文部省(現・文部科学省)への設置申請許可というのは、大変面 倒だったようです。当時演劇科を置く大学は他にもあったのですが、専門の俳優をつくる為の大学は無くそれらの大学はみなどれも一般 教養優先型で決して実践的な内容ではありませんでした。千田先生が目指している「飛んだり跳ねたり、発声したり、俳優養成所的な専門俳優養成所」とは大分おもむきが違っていました。しかしこのような演劇の基本的な訓練を行う俳優教育が大学として馴染むのかどうか、文部省にとって設置許可の最大のネックになってしまいました。
 更に千田先生、安部先生、田中先生の様に、それぞれの分野で活躍されておられる方が大学の先生として常勤勤務ができるのかどうか。文部省にとっては懸念だらけでした。

兎に角申請をし、それから専門委員会の実地調査を受けることになりました。文部省から審査を専門委員の先生方が、桐朋にこられました。委員長として来られたのは造船工学の大家で東大の教授。後は演劇関係の分野を担当されている他の大学の先生が3人。その実地調査の席で、「なぜ俳優教育を大学で行うのか?」と言う質問が出た時、千田先生はヨーロッパの例をひきながら「今こそ大学教育の中に専門の俳優教育があってしかるべき。」ということを話されました。更に専門の俳優教育というのは大学で可能なのかどうかという問題についても,非常に理路整然と、説得力を持って話されたといわれています。こうして本邦初の短大演劇科が、俳優座養成所の発展的な解消の延長線上に設置され、昭和41年4月、選び抜かれた男子18名、女子21名の第一期生、演劇科がスタートしたという訳です。

(文: 5期杉村治司)