O氏のこと その3 | 曇りときどき晴れ

O氏のこと その3

O氏には娘が二人いる。
話の流れからおわかりただけるかと思うが、O氏の長女が私の連れ合いである。
連れ合いとの結婚前後の時期、O氏の私に対する印象はあまり芳しいものではなかった。
まず、私は結婚式のわずか2週間後に無職になってしまい、
職が決まるまでの3か月の間、連れ合いの雇用保険で生活することになってしまった。
いきなり「ヒモ」のような新婚生活がスタートしたわけである。

もちろん無職になったのには事情はある。
私が㈱三貴(ジュエリーマキ)でサラリーマン生活を送っていたことは1月のブログで書いたが、
実は連れ合いも㈱三貴(ジュエリーマキ)の社員だった。
それも木村氏(社長)のお気に入りの秘書だった。
私はと言えば、木村氏の大嫌いな社員だった。
木村氏は大嫌いな社員である松谷とお気に入りの秘書が結婚することに腹を立てた。
「おそらくお気に入りの秘書は大嫌いな松谷に騙されているに違いない」と考え、
結婚を阻止するため妨害行為を開始した。
人事担当の役員Mに、連れ合いの実家(つまりO氏宅)に、
「松谷のようなロクでも社員とお宅のお嬢さんが結婚するのは賛成できない。
今(結婚式の2週間前)からでも式を取りやめたほうがよい、そう社長が心配していらっしゃる。」
と電話を掛けさせた。
娘の勤務する社長名で「結婚を取りやめろ。」と人事担当役員から言われ、O氏は腰を抜かすほど驚いた。
当時の㈱三貴(ジュエリーマキ)は売上高2,000億円、社員数7,000名の大企業だ。
その大企業の役員が社長の名代で直々に電話を掛けてくるというのはよほどのことだ、
O氏でなくてもそう考えるのは普通だと思う。
O氏は長女(つまり私の連れ合い)に私のことを「本当に松谷君は大丈夫か?」と確認したらしいが、
連れ合いは世の中から少しずれた感覚を持っている人なので、「何が?」と聞き返した。
O氏はガクッとしながら、娘がいいというなら仕方がない、と観念して結婚式に臨むことにしたという。

その後も、㈱三貴(ジュエリーマキ)側から私に対する攻撃は執拗に続いた。
結婚式の1週間ほど前になって、降格・異動を命ぜられた。
直属の上司であるK部長が木村氏に呼ばれ、何やら5分ほどこそこそと話し合っていたかと思うと、
戻ってくるなり、私に「私物を整理して今すぐに大宮商品センターに行け。異動だ。」と命じた。
私は「辞令はあるんですか?」上司に訊ねると、「そんなもんはない。」と言われた。
「それはおかしい、文書になってるものをよこせ」とか何とかとでひと悶着あったが、
K部長がかわいそうになった私は、異動を受け入れ荷物をまとめた。
最後に木村氏に何かひとこと言ってやろうと、木村氏のテーブルに歩を進めだした瞬間、
数人の同僚や上司から羽交い絞めにされて止められた。
周囲からは私が何をしでかすかわからないように映ったようだ。
ちなみにK部長には仲人をお願いしていたのだが、この時、私の方から断った。
K部長が三貴で生きていくには、私と係わらない方がいいと判断したからだが、
3~4年前、ある三貴OBの通夜で出会った時、私が仲人を断ったことを根に持っていて驚いた。

その時は単に異動だと思っていたが、その後給与をもらったとき初めて、
常識では考えられないほどの降格だったことがわかった。
職位は入社した時よりも下(新入社員以下)だったし、給与は半分以下の水準に落とされていた。
堂々と理由を説明し辞令を出した上で、降格なり減給に処すればいいのに、一切説明はなかった。
「卑怯な会社だし、ケツの穴の小さい社長だな。」と、その場で退職届を書いて提出した。
辞めるまで毎日人事担当の役員当てに電話して、「降格理由を役員本人から説明させろ」と、
言い続けたが、役員のMが逃げ続けて直接話をすることもできなかった。

O氏は心配をして、私に再就職先を世話することをにおわせたが、私は断った。
1992年の夏、すでにバブル崩壊は顕在化していた。
2年ほど前までいくらでもあった求人が、ほとんどなくなっていた。
でも32歳の私が3か月で再就職できたということは、今よりはまだましだったのかもしれない。
ところが苦労して再就職した会社をも、一年後、私はまたも飛び出してしまう。
そして、知人といっしょに御徒町にダイヤモンドの卸会社を設立することになる。
O氏はやはり心配だったらしく、どのような事業を行なうのか何度も確認してきたが、
当時の私にも何ができるのか、どのくらいのことができるのか皆目見当がつかなかった。
何度か話し合った末、O氏私が知人と会社を設立することについて、渋々承諾してくれた。

私と連れ合いが結婚した2年後、O氏夫妻は愛知県から首都圏郊外の田園都市に一軒家を購入し、
引っ越してきた。私と連れ合いは1年間、その家に寄宿させてもらった後、
同じ町内にできたマンションへと引っ越した。

O氏の夫人が「線条体黒質変性症」という難病を発症したのは、それから僅か2年後のことで、
以来今日まで、O氏は夫人の看病と自身の病気や怪我との戦いを続けている。