反原発アンセムという幻想 (JAPAN2011.12月号 REVIEWより再掲) | テルアキのブログ

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※以下は、『ROCKIN' ON JAPAN』2011.12月号 JAPAN REVIEWに掲載された文章です。JAPAN編集部の許可をいただいて、ブログに掲載しております。




反原発アンセムという幻想
――リアルタイムで「サマータイム・ブルース」を聴いたはずの大人たちへ




相変わらず冷たいね
相変わらず嘘つきだね
相変わらずだね
(RCサクセション 「九月になったのに」)


 原爆の日。終戦記念日。お盆。8月の日本に訪れるいくつかの厳粛な日に、忌野清志郎が引き合いに出されるようになった。生前は、いや一周期を迎えた去年でも、こんなことはあり得なかった。きっかけは「サマータイム・ブルース」だ。RCサクセション時代に発表したこのカバー・ソングが、今年3月の原発事故でいきなりクローズアップされ、反原発アンセムとなる。そしてあっという間に反核・反戦というテーマまで背負わされ、「20年以上も前に、原発や核について歌っていた清志郎はすごいじゃないか」とされるようになった。しかもツイッターなどを見ていると、ファンじゃない人が勝手に持ちあげているのではない。僕のようにリアルタイムで聴いていた年代が、率先して引き合いに出している。印籠か踏み絵のように振りかざしているのだ。これは一体、どうしたことだろうか。


 僕が「サマータイム・ブルース」を初めて聴いたのは、『Marvy』ツアーの時。ライブ中盤で新曲として披露されたこの曲は、カバーというよりは替え歌だった。原曲マル無視の歌詞、「ッポン! ッポン!」という金子マリのコーラスというかお囃子に、大笑いしたのをよく覚えている。

 当時大学生の僕は、広瀬隆氏の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』『東京に原発を!』『危険な話』などを読みあさり、原子力行政や原発のヤバさは知っていた。でも「サマータイム・ブルース」を聴いて引き出されたのは、政府や東電への怒りではなく笑いだった。原発云々より、替え歌を面白おかしく歌う軽やかさが、観ていて痛快だったのだ。『Marvy』期の、RCがRCを演じているかのような閉塞感・やらされ感がスーッと消えて、シンプルに「いーじゃんコレ!」と思えたのだ。

 演っている清志郎やバンド側にはもっと手応えがあっただろう。その集大成である『カバーズ』は、身震いするほどの傑作になった。でも身震いしたのは、矛盾した表現だが「軽やかだったから」ではない。作りが緻密だったからだ。リマスタリング盤全盛の今聴いてもまったく遜色のない音の良さ。ジョニー・サンダース、山下洋輔、坂本冬美ら、国境・ジャンルを飛び越えてやってきた多数のゲストが生み出す、曲の表情の豊かさ、完成度。そして時に原曲に寄り添い、時に原曲を突き放す歌詞の自由さ。「聴くに値する作品」「聴き継がれていく作品」を生み出すために、バンドが、清志郎が、誠実に粘り強く取り組んだことがビシビシ伝わってきた。

 「サマータイム・ブルース」も例外ではない。リリースすればすぐ話題にされるであろう「反原発」という臭みは、実に巧妙に取り除かれている。高井麻巳子(元・おニャン子クラブ)の「『電力は余ってる』ってよ?」という他人事全開のコーラス。三浦友和の、「原発ではなく原子力発電所と呼ぼうではありませんか」という「エ、そこ大事?」なナレーション。きわめつけはラスト30秒、泉谷しげるの一人芝居だ。一般市民がわけもわからず首を突っ込み、受け売りで「原発はいらねんだよ!」と騒ぎ出す。悪態がピークに達したところで曲はブツッと終了。最後に一人置き去りにされてしまう――。原発を扱ったからって、めどくさいことに巻き込まれるのはごめんだ。今までと同じように、歌いたいことを歌ってるだけなんだから。…などと代弁するのがダサく思えるほど、反原発が表面的なネタにすぎないことは、曲を聴けばすぐ分かるだろう。では今までと変わらない「何を」歌い込んでいたのか。それは後述する。


 そして誰もが知っているように、『カバーズ』はお蔵入りしかけた。原発プラントメーカーでもある東芝に対して、子会社の東芝EMIが気を遣い、自主規制で『カバーズ』リリースを見送ったとされている。古巣のキティレコードからリリースされたので、ファンとしてはまぁよかったのだけど、清志郎はこの時相当傷ついたのではないか。

 当時ジャパンのインタビューでも怒りをあらわにしていたが、僕が一番覚えているのは「じゃあ今までの作品は何だったんだ」という言葉だ(一字一句は思い出せないが)。清志郎にとっては『カバーズ』もそれ以前の作品も同じ、自分の作品だ。売れたり売れなかったり、名曲とされたりスルーされたり。聴き手の反応は様々だが、身を削って生み出したものに変わりはない。でもそれらがリリースされてきたのは、清志郎やRCの作品だからではなかった。原発に触れてないから、原発という単語を使っていないから、なのだ。「誰がどんな思いで作ったものかなんて、どうでもいいんだよ」。清志郎は、レコード会社からそう言われた気がして、腐ってしまったのではないか。

 追い打ちをかけるように、次の『コブラの悩み』は東芝EMIから普通にリリースされる。随所でレコード会社を批判しているが、直接「原発」と言ってない一点においてこのアルバムはOKなのだ。何とまぁ、人をバカにした話だろうか。アーティスト・忌野清志郎が味わった敗北感や屈辱感は、想像するに余りある。


 振り返ればRCは、1988年の1年間で『Marvy』『カバーズ』『コブラの悩み』と3枚もアルバムを出している。でも僕は、この年を境に、清志郎もRCもおかしくなってしまったと思っている。

 まず『カバーズ』騒動の直後、キレ気味にタイマーズを始動させ、直接的・攻撃的な表現の「音楽特区」を自分で作ってしまった(清志郎じゃないらしいけど)。翌89年のツアーは新曲が中心…なのだが、本人曰く「レコード会社がレコーディングさせてくれない」ためにやむを得ずこうなっているだけで、「みんなラジカセで録音しちまえ!」とむちゃくちゃなことを叫んでいた(この時に「I LIKE YOU」や「君はLOVE ME TENDERを聴いたか?」フル・バージョンを初めて聴いた)。地方によって違うだろうが、僕が住んでいた仙台では当日券で、前の席を取れるほどの空き具合。前の年に『カバーズ』でオリコン1位になったバンドなのに、マジかよ…。いったい誰が買って、そいつは今どこで何に金を使ってるんだろうとうらめしく思った。

 さらに次の年、90年夏の野外フェスで観たRCはもう原型をとどめていなかった。設営アルバイトとして前日のリハをチョロ見していたのだが、そこで初めて新井田耕造(ドラム)とGee2wo(キーボード)が脱退していることを知り、愕然とする。リハで演奏された「あふれる熱い涙」。オレンジのステージ・ライトが作り出す光と影、その両方にしみ込むように悲しげに響いた。秋にリリースされた事実上のラスト・アルバム『Baby a Go Go』は、佳曲がたくさんあるけれど、バンドとしての生気を感じられる作品ではなかった。


 『カバーズ』騒動さえなければ…と、今でも思う。騒動の当時、清志郎は37歳。それまで積み上げてきたものを踏みにじられるには、キツい年齢だったはずだ。自分と比べるのはあまりに傲慢だけれど、僕自身40代半ばになってほんのちょっとは清志郎の受けたショックが分かる。信じて一緒に仕事をしていた人に、ある日突然裏切られたら。関わっている一人一人は決して悪人ではないけれど、その総意が自分に牙を剥いたら。二本足で立っていられるか。何事もなかったようにオープンマインドで振る舞えるか。難しい。形を維持することはできても、内心はもう、どうでもよくなってしまうだろう。


 今改めて、RCをはじめ、清志郎の作品を聴いてみる。立ちのぼってくるのは、「僕を裏切らないでくれ、僕に嘘をつかないでおくれよ」という叫びだ。情けなく、寂しい願いだ。正面からそう訴えるバラッドもあれば、自分で自分に活を入れるようなアッパーな曲もある。そして自分を欺いたヤツだけでなく、欺かれた自分までせせら笑う曲もある。その典型が「サマータイム・ブルース」だ。どれもこれも、清志郎独特の、しみついたまま落とせない孤独感や疲労感が曲を覆う。

 でも曲作りを通して、欺かれまいとする思いを昇華できている間は、まだよかったのだ。曲に昇華するその現場で裏切られ、嘘が充満した時、くどいようだが清志郎の中の何かがハジケた。1988年も、2011年も、清志郎の作品と同じ空気の中にいたという以外、証拠なんてない。でもその痛みは、学生だった自分に、20数年後の自分に、それぞれの形で胸に迫ってくる。すごい表現者だったんだなと、今さらながら思う。


 今「サマータイム・ブルース」を聴いて、10代、20代の人が話題にしたくなる気持ちは、分からないでもない。ポップで、カッコよくて、不謹慎で、笑えて…。RCも清志郎もよく知らないけど、機会があるたびにこの曲を聴きたくなる、この曲に触発されて、何かを発信したくなる人が出てきても、自然なことだ。その流れで「反原発アンセムだ、カッコいい」と言い出す人だっているだろう。

 でも自分と同じか、さらに上の年代の人たちに対しては、そんなふうに見ることはできない。RCや清志郎をリアルタイムで聴き、彼らのファンを自称しながら、何のためらいもなく「サマータイム・ブルース」を反原発の象徴に担ぎ出す人を、僕はどうしても理解できない。なぜ今さら「サマータイム・ブルース」を担ぎ出すのか。「サマータイム・ブルース」1曲を抜き出して清志郎すごい、RCすごいと言う行為は、「サマータイム・ブルース」1曲でリリースを見送り、彼らを踏みにじった行為とイコールだ。まともに表現と向き合っていないという意味では、ほとんど同罪ではないか。なぜそれが分からないのだろう。

 原発事故以来ずっと、どうしてもそのことがわだかまっていた。でも最近、何てことのない結論にたどり着いた。


 別に誰でもよかったんだ。


 反原発がテーマで、口ずさみやすければ、何でもよかったんだろう、きっと。そして「サマータイム・ブルース」を取りあげたのは、忌野清志郎がこの世を去っていたからだろう。作者がいなければ、いつどんなふうに扱おうとケチをつけられる心配はない。ツイッター上で、「サマータイム・ブルース」を歌いながらデモ行進をしよう!と告知しても、怒られることもない。死人に口なし。

 あの曲を作り、発表しようとしたことで清志郎が被った痛みは、別にどうでもいいのだ。どうでもいいどころか、清志郎がいない世界、そして、「清志郎と同じ時代を過ごした」と自称する一部の人は、死んでもなお清志郎を踏みにじる気満々だ。そんなふうに無神経になれたら、それはそれで楽しそうだけどさ。


 キュウリの馬にまたがって、清志郎はお盆に帰ってきただろう。そして自分の曲の扱いを見て、何て思っただろうか。笑っただろうか。怒っただろうか。分からないな…。でもナスの牛であの世に戻る時はノンビリ行くらしいから、「しょうがねぇなー、また曲でも作るか」って思ってくれると嬉しい。


はめられて消されたくない
好きな歌をうたって
いろんな所にいって
見てきたものをうたうだけさ

日はまだ昇るだろう このさびれた国にも
でたらめな国にも
いつの日にか いつの日にか
自由に歌えるさ
(RCサクセション 「アイ・シャル・ビー・リリースト」)


(『ROCKIN'ON JAPAN』 2011年12月号 JAPAN REVIEW掲載)