芸人の分水嶺 | 硝子の中年のブログ

芸人の分水嶺

先日、笑福亭鶴瓶がゲストの劇団ひとりについて褒めていた。

芸人として、勿論、お笑い芸人を指しているが。

理由は「狂気を持っているから」

この考えは確かに正しいと思う。

彼の非常識なエピソードを紹介していた。

東京の落語家では立川談志が典型的な例だと思う。

要するに、真面目で全てに平均点の人間には務まらないし、客を満足させて、納得させるようなオリジナルな笑いの得意技も飛び道具も備わらないということ。

何かに突出した、破天荒で逸脱した部分を思考回路や精神構造に持ち合わせてないと、駄目ということだと思う。

しかし、物事には自ずと限度とか程度問題がある。

番組は勿論、生のステージや営業も、必ずスタッフや関係者がいて構成されて、制作されている。

だから、遅刻の常習とか、アルコール依存症とか、個人が極端に社会人としての適格性を欠いた言動があれば、次回以降は起用されないし、仕事が減って、干されていく。

だが、逆のケースもプロとしては困る。

一番の好例が、「ペケポン」というバラエティ番組の中の川柳のコーナーに時々出演する三遊亭歌橘という落語家。

円歌門下で真打だが、芸人が持つ毒が全く画面から感じられず、解答も面白みの欠片もない。

人畜無害を絵に描いたような雰囲気、空気感の人物である。

臨機応変、当意即妙のリアクションが、返しができない。

素人でも、もっとましな人間がいる。

この業界で飯を食う才能はゼロに等しい。

典型的な道を間違えたケースである。

プロデューサーの起用の意図が理解できない。

要するに見ていて不愉快になる。

正答する可能性がゼロの人間を登場させていても、興味や面白さは半減する。

番組にとってマイナスはあってもプラスはない。

例えば、大喜利のメンバーに起用することが全く想像できない。

まあ、何らかのコネが働いている可能性はあるが。

逆のケースも当然ある。

私が最近注目している二つ目の落語家に三遊亭きつつきがいる。

彼はオペラ座ならぬ、寄席の怪人と呼ばれている。

彼については、5/2のブログに記したので、詳細はここでは割愛するが。

いずれにしても、淘汰されるべき芸人が大勢いるのが、この業界の現実である。

それは本人が自覚すること、覚醒することが一番望ましいが、周囲も当人が分るように示唆すること、引導を渡してやることも必要である。

底辺や門戸が広いことは適切だが、退路も確実に開いていることを教えてやって欲しい。

ただし、噺家の場合は寄席というバックグラウンドがあり、最低限、生業として生計が維持できるから始末が悪い。

要するに、かつての銀行のように護送船団方式という保護下に置かれているという見方ができる。

勿論、売れない噺家は大変に惨めなものではあるが。

くたびれた帯を締めているなど、江戸前の粋とは程遠くなる。

だが噺家で生活保護を受給しているという話は聞いたことがない。

芸人を取り巻く環境としては、何が正解か、微妙と言える。