提言の最終章 | 硝子の中年のブログ

提言の最終章

今回の原発事故にともなう海外メディアの過激報道について、外務省が抗議し、訂正を申し入れている、と報じられている。

全くの事実誤認もあれば、意図的に事実を歪曲し、捏造し、誇張して伝えているケースも相当数存在すると思える。

理由は、その方が部数が伸びたり、視聴率が上がるからだ。

それほど、マスコミの本質は正義の側に立つよりも、営利の側に、利潤追求の側に立っていると言える。

極めて下賎、下劣、下等と言わざるを得ない。

マスコミのアジテーションに、扇動に、そしてミスリードに乗ってはならない。

大本営発表を信じてはいけない。

本来のジャーナリズムとは全く次元が違う。

これは、その類いのニュースを求める視聴者や読者の民度と正比例すると言っても過言ではないと思う。

その国の民族や人種の映し鏡と言える。

第三者から尊敬されることは決してない。

要するに野次馬根性であり、芸能人のゴシップと同じくらいに、彼らの好物なのである。

しかし、我々日本人はこれらの現象と無関係なくらい高潔かと言えば、それは否定せざるを得ない。

要するに、人間の本体や本性は大きくは変わらないと言える。

だから、反省し自戒しなくてはならない。

客観的に捉えることが必要である。

逆の立場になって考えることを励行する。

そのような習慣をつけるように、常に思考回路を整えることが求められる。

別の視点で述べると、報道を常に疑ってみる。

100%信用せずに、自分のフィルターを通して、咀嚼して、解釈することが大切である。

組織や団体が公的であったり、規模が大きいから、その行動や運営が正しいという保証は何処にもない。

具体的な例は枚挙に暇がない。

証券会社の現役社員による詐欺事件。

ヒューマンエラーではなく、過失ではなく、不作為により適切な業務を執行しなかったために、薬害などに代表される事件も多く発生している。

これも勿論、刑事事件に発展する。

報道も例外ではないということである。

彼らは自分たちが、ペンという武器を持つ正義の使者であるという驕りがある。

これは非常に危険である。

当人にとっても、社会にとっても、大衆にとっても。

自らの眼力を向上させるためには、基本となる見識と教養は欠かせない。

そして、知的好奇心を持つと同時に、社会の不義、不条理に対する公憤を絶やさずにいることが絶対的な、不可欠な因子である。

最後に再三指摘するが、原発のシステムは脆弱で、数時間通電しないだけで核燃料棒が露出して、溶融が始まる。

自然災害であれ、人的行為であれ、そのような停電の危険性はいくらでも存在する。

そして、制御不能になって、様々な余波も含め、日本の国民の生活の全てが回復不能な状態へ陥る。

まさに今が現在進行形である。

あの程度の衝撃で容器にクラックが生じて、生成物が漏出するのであれば、それは機械類としては著しく不完全であり、実用に値しない。

あの容器内で、酒や乳製品を作っているのであれば問題ないが。

我々、日本人が先人の努力と英知を連綿として継承し、発展させて、培ってきた多くの有形無形の財産を、原発はいともたやすく短時間で棄損して、全滅させた。

この罪を償う術は無い。

次世代でしか、復興はできないはずだ。

おそらく半世紀の後になるだろう。

そのためにも、原発は順次廃炉にして、この国をリセットしなくてはならない。

座標軸と羅針盤を根本的に改変しなくてはならない。