JR総武線快速・馬喰町を出て江戸通りを新日本橋方向へ進み、鞍掛橋を過ぎたあたりで左へ曲がると日本橋大伝馬町。
伝馬とは馬の背に荷物を積んで宿から宿に送る制度でした。
というわけで、歩道のタイルにも
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第74景「大伝馬町ごふく店」に描かれている大丸屋は通旅籠(とおりはたご)町にあったそうで、今でいう大門通りと大伝馬本町通りの交差する角の南西側。
大丸屋も越後屋に倣って「現金かけねなし」で京都から進出して、繁盛したそうです。
伝馬町に進出ということに、ちょっと違和感があったので調べた所、
伝馬が町名になっていた宿駅・大伝馬町ですが、文禄3年(1594)に千住大橋が架けられ慶長2年(1597)に千住宿が奥州街道の最初の宿駅になったため、大伝馬町は”伝馬”制度とは無縁となって、その後木綿問屋が進出してきて発展したとのこと。江戸切絵図に紺屋町、白銀町、鍛冶町などとならんで大伝馬町とあったので江戸時代も”伝馬”をしていたのかと思っていたのですが、そうではなかったのですね。


では、広重 名所江戸百景 第74景「大伝馬町ごふく店」
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大伝馬本町通りを西へ進むと水天宮通り。
通りを渡って右に進むと、伝馬町牢屋敷跡、松陰先生終焉之碑、石町の時の鐘、などのある十思公園 に出ますが、今回は左へ。
しばらく進むと、ビルとビルの間の小路の奥に椙森(すぎのもり)神社発見。(すぐ先にあった周辺地図を見てわかったのですが^^;;)

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「椙森(すぎのもり)神社
所在地 中央区日本橋堀留町1-10-2
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新以降も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。 
 境内には冨塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われたとみ興行をしのんで大正8年に建てられたもの(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
 平成8年3月 中央区教育委員会」
冨塚

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「当椙森神社は、遠く1千年の昔、未だえどが武蔵野の原と言はれた時代の創建です。
江戸時代には、江戸三森の1つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の1つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に、残されています。
この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いがに思い浮かべることができます。この富塚は庶民の心の記念として大正9年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。
この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている様です。」


帰りにサマージャンボ宝くじでも、と思いましたが、やっぱりやめましたw


大伝馬町といえば、もう1点、第7景「大てんま町木綿店」があるので、次はそちらへ。


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