私にはフランス人の従姉妹がいる。
毎年、バカンス時に日本に来る。仕事は音楽関係(プレイヤー)なのだが、法律に興味があり、本国でも弁護士と議論するのが大好きなのだと言う。

先日会った際、ふと思い出したので、私が3年前に、「フランス死刑廃止30周年記念円卓会議」の主催者の手伝いをした際、死刑を廃止に導いた時の法務大臣、パタンデール氏とネット電話回線を結んで直接話を聞いた時の話をした。
「バタンデール」と聞いて従姉妹は興奮した。フランスでは知らない人はいない、誰からも尊敬され、誰もが素晴らしい人物として称え、フランス史に残る立派な人物なのだという。
彼は死刑制度廃止だけではなく、他にも様々な法整備をしたのだ、と力説していた。本当に素晴らしい人なのだと。
えっそんなに有名な方なの?と驚いたが、日本で言えば吉田茂や佐藤栄作のような人物なのか?いや、吉田茂や佐藤栄作よりももっと、尊敬されているような気がする。私が田中角栄元首相を敬愛しているのと同じような感じだ。しかし田中角栄を敬愛している者は少ないだろう。バタンデール氏はそれよりももっと、大きな規模で、フランス人から敬愛されているらしい。そういう人物は、日本の政治家にはいない。坂本龍馬くらいに遡らない限り。

まさか私が「その席でバタンデール氏に異を唱えた日本の元最高裁裁判官が、オフレコでバタンデール氏を思いきりディスっていた事に感動」していたなどと本当のことは言えないので、そんなに素晴らしい人物とお話できて光栄だったわ、などと誤魔化し、それから従姉妹は私のことを「そんな素晴らしい人物とお話できた凄い人」という目で見ていたので、少々バツが悪かった。



そこから予想通り、「あなたは死刑制度に賛成?反対?」と聞かれたので、私は「私は賛成派だ」と答えた。理由を聞かれ、一つだけ持論を挙げた。


「人間には、殺されたならば、仇討ちをするという権利がある筈だ。親しい者を殺された場合、何らかの方法で相手を罰したい、反省させたい、謝罪させたいといった行為を全て国家が遺族から取り上げた以上、国家が遺族の思いを実現させなければならない。その刑罰としての一つの選択肢として、遺族の殺してやりたいという思いを実現させる死刑という手段は、残されるべきだ」


従姉妹に尋ねかえしたら、彼女はもちろん、死刑制度反対派だった。


「私が実際に親しい人を殺された経験がないからかもしれない、子どもを殺されたら殺してやりたいと思うかも知れないし、時々ニュースを聞いてそう思う。しかし、どのような場合であっても、人が人を殺すことは絶対にいけないことだと思う。たとえそれが国家であっても

そして、こう呟いた。


「あなたは、国が人を殺すことに疑問はないんだね」


確かに!私が死刑制度を支持するその背景として、その国家を信頼していることが前提なのだ。某国や某某国において、論外な死刑執行がなされまくっている事は許し難い。信頼に値しない国家に刑罰権を与えるととんでもない事になる。
だから、私は、冤罪の危険や違法捜査といったリスクはあるものの、基本的に、我が日本という国家に対して信頼を置いているのだ・・・ということを、渋々、認めざるをえなかった。


ちなみに私は、「死刑制度の犯罪抑止的効果」については余り期待していない。死刑制度があるから殺害をやめるという者は、一定数はいるだろうが、そう多くはないだろう。実際に国際的統計によってもその通りになっており、それが死刑廃止論者の論拠ともなっている。

だが、従姉妹は「日本は、死刑制度もあるから、安全なんだね」と信じて疑わない。抑止的効果があるのだと思っている。それでも死刑は、正当化できない・・・というよりも、「人が人を殺すこと」を正当化することはできないのだ、という。


「人が人を殺すことを正当化できない」とは、かなり説得力がある。
昔、ある刑事弁護専門の弁護士から、予備校の授業で、「死刑制度には、国家が人を殺すということについて、生理的に受け入れられない気がする」と死刑制度反対の理由を語っていたのを思い出す。
死刑制度に反対だ、というのは、生理的レベルなものであるから、私も心の奥で賛同せざるを得ない。



この「個人対国家」である死刑制度と、「国家対国家」である戦争と同種の構造を持っている。戦争は、国家が国家に対し死刑を執行するようなものだ。だから、その国家としては戦争は正当化される。人が人を大量に殺すことが、国家によって正当化されるのが戦争だ。

「戦争正しい」と考えている者は、まずいない。どのような国のどのような元首であろうとも、戦争そのものを好む者は別として、戦争をしたいと思う筈がない。勿論国民もだ。
武力は究極的には戦争を避けるための一つの手段に過ぎない(一部の共産主義国家を除く)。「プロレスラーに喧嘩を売る者はいない」とは、かの田母神俊雄大先生の名言だ。個人レベルでは、いつも弱い者が犠牲になる。それは国家とて同じ事だ。

「弱くて金持ちがいじめの対象になりやすい」という名言は誰だったか。これも事実だ。子どもの世界で行われている事が、そのまま、国家間レベルにおいても行われている。
弱い子はどうしたらいいのか。強くなるために身体を鍛える、これも一つだ。私の知る者はいじめに対抗する為にボクシングジムに子どもを通わせていた。
武器も、パワーバランスに過ぎない。リアルな武器を携帯したら犯罪になるが、「権力という名の武器」を振るえる者は躊躇なく振るえる。私はつまらない正義感の持ち主だったが、いざ我が身にふりかかった時、この権力という名の汚い武器を思う存分振るわせてもらった。振り返ると実に汚い手段だとは思うが、その効果は絶大で無敵だった。戦争がなくなるならば、どんな汚い手段であろうとも、使わせてもらう。


つまり、所謂右寄りの思想の連中は、戦争を正当化しているのではなく、戦争を避けるための手段として考え得る様々な方策を正当化しているだけなのだ。集団的自衛権なるものもその一つの手段にすぎない。つまりは「知恵」に過ぎない、このことを、集団的自衛権行使=戦争と説く者達は看過している。

集団的自衛権を厭う者は、恐らくは頭ではなく「生理的に」受け付けないのではないだろうか。
一方で集団的自衛権を支持する者は、恐らくは頭で考えた「知恵」として受容している。
私も、各国の資産や裏口座といった弱みを握るという手段によって、戦争を回避する方策を採ったスイスと同じように、日本は自国民が他国から侵略されない為の手段を採って欲しいと心から願う。戦争反対とお題目だけ唱えてなされるがまま、いざ武力行使されたら略奪されるがままの国家はご免だ。国家は知恵を絞って自国民を護ってもらいたいと、そう考えている。


だから、これはあくまでも仮説だが、死刑制度廃止論者に、集団的自衛権の是否を問うたら、かなりの高確率で「否」と答えると思う。
逆に、死刑制度賛成論者に、集団的自衛権の是否を問うたら、かなりの高確率で「是」と答えるのではないだろうか。
それは、どちらも「人が人を殺すことを、生理的に受け付けないか」「人が人を殺すことを、より大きな目的の為の必要悪として受容できるか」という一点で共通しているからだと考える。



・・・とここまで考えて最後にひっくり返すような結論に向かう。

私は、フランス人の従姉妹が「人が人を殺すことはたとえ国家であっても、許されないんじゃないの?」と問うた言葉に心が動いた。私の意見も間違っているとは思わないが、彼女の意見は、「より」間違ってはいない。反論できない。
だから私は、「どちらが正しいとか、そういう結論はでないね」とお茶を濁すしかなかった。
やはり私の意見は、「頭」で考えたものだから、社会秩序を維持するための一つの「方策」、人類が考え出した法による秩序を維持する一つの「知恵」だから、彼女のような根源的な「問い」には答えられないのだと思った。
死刑制度廃止は、終身刑導入とセットである限りにおいて、ありうる話かもしれないと、ふと思ったのだ。


その晩、何気なくインターネットを見ていて、日本の裁判史上異例の「一人でも死刑」判決についての記事を見つけた。最初から強姦するつもりで誘い出し、命乞いをする若い女性を殺害し、バラバラに切断して遺棄し、反省と謝罪の弁もない殺人事件だった。
裁判員裁判にて求刑以上の「死刑」判決が出された。初犯で一名殺害にもかかわらず死刑判決が出ることは、日本ではまずありえず、裁判員裁判だからこそと言われた事件だった。
この被告は最終弁論でそれまでの言を翻し突然涙を流してはじめて謝罪したという。しかし犯情が悪かった為、死刑を宣告された。弁護人は即日控訴したが、本人が取り下げ、死刑が確定している。控訴すれば他の多くの事件と同様、無期懲役の逆転判決が出る可能性が高かったのに、本人が死刑を確定させたのだ。

「死刑にしたって、殺された本人が還るわけでもない」「遺族は報われない」「だから、新たな殺人(死刑)を重ねることは空虚だ」
・・・などという遺族の応報感情を否定する意見も、使い古しの死刑廃止論者の論拠の一つだ。

だが、上記事件を報じるページに貼られたリンクを見て、その思いが間違っていることに気付いた。


 「私たちはこうして救われた」
 公益社団法人被害者サポートセンターおかやま 加藤 裕司
 http://vsco.info/hannzaihigaisyanokoe2501.html


 私たち被害者家族は、極めて優秀で正義感の強い検察官、良識のある裁判員の方々、永山基準に影響されなかった裁判官、裁判長のおかげで被告人に死刑判決を与えることができた。裁判員裁判制度が始まって平成25年5月21日でまる4年が経過したが、私たちが勝ち取った死刑判決は、裁判員裁判開始後16番目だった。殺人の数が1名での死刑判決は3番目。初犯で殺人が1名での死刑判決は裁判員裁判史上初めてのようである。しかも、死刑囚である住田が3月の終わりに自ら控訴を取り下げたため、判決後1か月余りで死刑が確定した。
 結果的に私は司法に絶望せずに済んだようだ。もし、無期懲役の判決が出ていたらどう思っただろうか。もし無期懲役の判決が出ていたならば、これ以上にどんなひどいことを重ねれば死刑になるというのか、これ以上のひどさとは一体何なのかを尋ねていただろう。裁判長に答えてもらいたいところだ。




うっかりしていた。死刑制度の是否は、「人を殺すことへの生理的な感性、道徳観」即ち「心」と、「それを頭で考えた方策、知恵」即ち「頭」という、対極にあるもののぶつかり合いであり、平行線だ・・・などと、それこそ「頭で考えて」しまっていたのだ。
被害者にとっては、そんな議論は無益だ。ただ、殺された無念の思いを、どうやって昇華させれば良いのか、どうしたら救われるのかという、魂の問題だ。死刑にしたからといって応報感情が充たされることなどない。
しかし、死刑にならなければ、無念の重ね塗りだ。国家からも裏切られた思いがするだろう。死刑にならなければ、絶望し尽くして倒れている者にダメ押し、止めを刺すようなものだ。
死刑判決に至る道は、遺族にとっては仇討ちの闘いの場であると同時に、自身の魂の救済への道だ。一人の人間が無碍に殺されたという事実を、国家が、国家を代表する者が真摯に受け止め、司法権という権力を行使し、全員で真実を追及し、刑罰を考える、この過程こそが救済の道に他ならない。その道の先にあるものは、失われた命に最低限見合うだけの「死刑判決」以外、考えられない。
そして、死刑判決が出ることによって、はっきりと、少しでも「救われた」と感じる遺族が現にいる。

そのことを、忘れそうになっていた。

「人が人を殺すことは許されない」、その通りだ。
だから遺族にとっては、「人が人を殺すことは許されない」という思いを現実のものとすること、それが「死刑」なのだ。それは理屈じゃぁない。


だから私はやはり、死刑制度は維持すべきだと考える。