アレルギーのお子さんをお持ちの親はもちろんのこと、そうでない人も、このニュースには多くの人が心を痛めたことと思う。


東京都調布市の小学校で昨年12月、食物アレルギーのある5年生の女児(当時11歳)が給食後に死亡した事故は「おかわり」がきっかけだった。給食事故の起きたクラスでは当時「給食完食」を目標に掲げており、女児も協力しようとしてアレルギー食材の粉チーズが入ったチヂミを誤って食べ、その後ショック症状を起こして死亡した。女児の両親が23日発表したコメントの中で明らかにした。

 関係者によると、女児は普段、あまりおかわりをしなかったが、粉チーズを抜いたチヂミを食べた後、おかわりした際に粉チーズ入りのチヂミを食べた。この日、チヂミをおかわりする児童は少なく、女児は自分からおかわりを申し出た。給食後、おかわりした理由を友人に「完食記録に貢献したかったからだよ」と答えたという。

 女児の両親は「みんなと同じ物が食べられない日も多い中、周囲の役に立ちたいという思いが、このような結果を引き起こすことになろうとは」とのコメントを発表した。事故後の調布市の規定は、原因食材を全く使わない日に限り、おかわりができるよう改められた。



この子は、「給食完食」という目標の為に、命を落としてしまったのか?
愕然とする。
「給食完食」・・・どうでもいい目標と言ってしまえば暴言だが、命と秤にかければ、どうでもいい目標になる。


私が知っている、近所の所謂「荒れた」公立校でも、「どうでもいい目標」を良く掲げていた。

だいたい、その学校は学校目標ですらお笑いだった。「やさしくかしこく」という平易な文字が正面玄関に大きく掲げられていたが、小学校1年生の時から暴力を振るうような暴れん坊や、きつい言葉で威圧する意地悪なお嬢ちゃんが多く、どうしても「やさしくない」子が集まるので、親が子どもをしっかり管理するような「かしこい」子はその学校を敬遠することになった結果、その学校は「やさしくないかしこくない」という残念な有様だった。

また、その日の終わりの会では、生徒間で「良かったと思う子」の名前を挙げて褒め合うのが恒例だった。
参観日に聞きに行くと、「○○さん姿勢がいいです」「○○君姿勢がいいです」・・・おいおい姿勢だけかよ、と思えば、たまに「○○君よく発言していました」・・・まぁ、たまに、「○○君が○○さんを手伝っていました」という報告もあったらしいが、そもそも、そういう事は、生徒が無理して考え出すものじゃなく、先生がしっかり見ていて指摘して、メチャクチャ褒める類いのものじゃないのか。それが教育なんじゃないのか。


「整理整頓」「あいさつをしよう」「大きな声で返事」・・・別に敢えて掲げるほどもない当たり前の日常、
「思いやりを持とう」「豊かな心」「命を大切に」・・・内容が立派だがどうやって実現したらいいのか分からないので題目だけになりがちなフレーズ、
「仲良くしよう」「感謝の心」「助け合おう」・・・こんな言葉が額に入っているその真下で、生徒が生徒から殴られている。
恐らく全国の小学校で、堂々と正面玄関に「いじめをなくそう」という目標が掲げられている学校は皆無だと想像するが、それはなぜか。
それはまず第1に、それを掲げるということは、その学校に「いじめが存在する」ことを認めることになり、それを認めることは学校にとって「恥」だと、学校が考えているからである。
第2に、その額の下でいじめられたりしたら、それこそその学校にとって「恥」であるが、そういう可能性を否定できないと学校が考えているからである。


「優しさ」「豊かさ」「思いやり」「感謝」「命」、そうした「人生にとって大切なこと」を教えようとしても、具体的にどう教えたら良いのか分からない。ただの題目にならないようにどう目標設定したら良いか、それが分からない。
具体的な目標を掲げないと、教える方も教えられる方も、分からない。だから具体的な、成果が分かりやすい目標としては大概、「挨拶」や「清潔」になる。それと、「給食完食」。



この子は「給食完食」というどうでもいい学校目標のせいで死んでしまったが、この子にとっては、「給食完食」の為に死んだのではない。「記録に貢献したかった」という、「他者への想い」から命を落としてしまったのだ。
この子のその尊い心こそ、生徒に教えられるべき「人生にとって大切なこと」なのではなかったのか。