友達から、埼玉県にある私立中高一貫校の「学校便り」に書かれている、校長の「いじめに関すること」のメッセージのコピーが送られてきた。学校長のいじめに関する取り組み、想いが伝わるから、と。

冒頭、こう書かれていた。
「私は校長として、不正を許しません。いじめは、人間の不正行為です。絶対許しません。」
その後、縷々、いじめをどう許さないのか、若干踏み込んだ取り組みを挙げた上で、いじめに遭った者へのメッセージ、傍観者へのメッセージの後、自身の体験談として、自分にもいじめられた過去があること、その時黙って手を差し伸べ続けてくれた友達がいたこと、でもその友達にひどい渾名をつけていたことを今になって思い出したこと、でもその友達は亡くなっていて、もう謝ることができないこと、というエピソードが綴られていた。

全ての学校長が、この校長のような人であるならば、いじめを巡る問題は今よりずっとましなものになっていただろう。


ふと、強烈な後悔の念が沸き上がった。

今からちょうど2年前、息子の区立小学校で、入学以来2年間継続した同級生からの集団暴行等について、担任では埒があかないと初めて校長に手紙を書いた時の、当時の校長からの返事に、
「いじめは、絶対に許しません。」
と書いてあったのだ。
私はその時、なぜ、
「では、どう許さないのか。」
と問い返さなかったのだろう?

大事なことは、「いじめは許さない。」という決意だ。
でも、それは必ず、「どう許さないのか」という具体的行動とセットで語られなければならない。なぜなら、それがなければ、ただのスローガンにすぎないから。

ところが、全国の学校長はじめ教育者は、「いじめは許さない。」とか「許されない。」とか軽々しく口にするものの、ではどう許さないのかについては何も語らないのだ。というより、考えた事もないのだ。

「許さない」という言葉は恐ろしい言葉だ。
例えば犯罪を犯した場合、被害者は「絶対に許さない」と口にする。また、警察、検察、そして司法権という国家権力は、「許さない」と言う。
その意味は、被害者にとっては心の中で一生、許さないという想いを抱き続け、恨み続けることであり、国家は権力を以て「罰を与え、罪を償わせる」ことである。
つまり、「許さない」ということは、必ず相応の「罰」とセットでなければならない。
刑罰権を持たない被害者は・・・そう、心の中で加害者に罰を与え続けている。


では、教育の現場で、「いじめは、許さない」と発言することの意味は?

学校長は、生徒を指導する権限がある。一定の懲戒権も持っている。公立小学校においても、停学処分、退学処分さえも法令上なしうることとなっている。発動することはないけれど。
しかしまずその前に、「許さない」対象である「いじめ」の定義がなされなければならない。
学校長が学校の権限をバックに「許さない」というのだから、些細な子ども同士の「ケンカ」やつい言ってしまった「悪口」、一回限りのたわいない「いたずら」程度も全て「いじめ」であるとするわけにはいかない。
通達でいじめの定義付けがなされているが、これは学校関係者が全く納得していない定義であり、余りに範囲が広く曖昧な為、
「とりあえず全部、いたずら、ふざけあい、ケンカってことにしときましょう」
という暗黙の了解の下、全て「いじめではない」ことにするのが現状だ。
私は、今の「本人が嫌だと思ったらそれはいじめ」という余りに主観的すぎる定義から、以前の「継続性の要件」を復活させるほうが今よりましだと考えている。定義を主観に依存させると、定義にあてはまるかどうかの判断も、教師の主観に依存してしまうからだ。


もう一つ。仮にいじめだと認定されたとして、教育界において、本当に「罰」を与えていいのか?というか、どんな「罰」を与えるのか?反省文を書かせる?親を呼び出して叱る?
楽しみにしていた合宿へ行かせないとか(そんなことをしようものなら大変なクレームが来てしまう)?・・・
私の知る限り、公立学校では何もしなかった。何一つ、だ。担任が児童呼び出してちょっと説教しただけだ。「罰」と呼ぶには程遠い。
いや、一人だけ、ある札付きの双子のワル兄弟から、ズボンとパンツを下ろされるという事があったが、その時余りに無反省な態度にある先生は「同じ事を今ここでしてやる!」と脅し、ようやくワル兄弟は泣いて謝ったと聞いた。そこまでしなければ分からないのだ。そんな先生は公立校においてはごく稀だ。
そんな「教育」も、滅多に行われないから、そのワル兄弟はますます札付きのワルになる。触らぬ神に祟りなし、で、放置された結果、今頃手が付けられないんじゃないかと想像できる。適切な「罰」を与えない結果として、いじめた側も残念な子どもとして成長していく。


いや、そもそも、学校は「罰」なんか与える気はさらさら、ないんじゃないか?

教育現場における「罰」は、大人に与え・与えられる「罰」と異なり、とてつもなくデリケートで難しい問題を含んでいる。子どもだけが持つ非可逆性という性質故、与える側も相当な知識と信念と覚悟が必要だ。そんな恐ろしいことを、あの連中がするとは到底思えない。
罪を憎んで人を憎まず。その「罪」の意識を子どもに教え諭し植え付け、その子が意味を真に理解し二度としなくなって初めて「罰」を与える事に成功したと言えるんじゃないか。それは最早「罰」とは言えないかもしれないが。
いずれにしても、罪の意識を言葉だけで与える事は難しい。大人にだって難しいんだから。ムショに入って初めて自分のしたことの大きさに気付くということはいくらでもある。
とすれば、「罰」が与えられるんだという事を全ての子どもに示さないと、「いじめは許さない」ことにはならいのである。


子どもは既に知っている。

「いじめをしても、許される」ということを。


にもかかわらず、全く考えることなく、平気で、「いじめは絶対に許さない。」と言ってしまう。何度でも言いますけど、権力者が「許さない」って宣言するって、凄いことですよ。
おいおい、それって、本当に「許さない」でいいの?
え?担任に生徒指導させて終わり??それだけ???それって結局は「許してる」ってことじゃないですか?
いや、そもそもこれは「いじめ」ではなかったんでしたっけね。集団で暴力を振るわれようが、何回何年ボコボコにされ続けようが、物を何回隠されようが、壊されようが、「いじめ」ではなく、「ふざけあい」ですもんね。

恐らく私が、
「では、どう許さないのか。」
「それが許さないということの意味だと言えるのか?」
「それは、結局は許しているということにならないか?」
そう聞いたとしても、恐らくあの、道徳教科担当だったという、道徳教育なんとか研究所の所長という肩書きも有していた校長は、私が転校させる際に最後に嫌味を言いに行った際、最後までうつむいて黙り込んでいた態度と、全く同じ態度を見せただけだっただろう。

それでも私は問うてみればよかった。とことん問い詰めて、己の無見識を、僅かでも自覚させてやりたかった。この問に行き着かない教育者は、きっと、教育者とは言わない、と。