以前、こちらで取り上げた「引きこもり殺人事件」の控訴審が結審し、2月26日、大阪高裁判決が出た。

まずは結審の時の報道。

求刑超え判決は「差別だ!」発達障害で姉殺害 大阪高裁

 大阪市平野区の自宅で姉=当時(46)=を刺殺したとして殺人罪に問われ、1審大阪地裁で発達障害の一種のアスペルガー症候群と認定され、「受け皿がない」などとして懲役16年の求刑を上回る同20年の判決を受けた無職の被告(42)の控訴審初公判が29日、大阪高裁(松尾昭一裁判長)で開かれた。

 弁護側は「精神疾患を理由に量刑を重くした1審判決は無理解で、差別」などと批判。心神耗弱状態だったとして刑の減軽を求めた。検察側は「判決に法令違反や事実誤認はない」と述べ即日結審した。判決は2月26日に言い渡される。

 控訴審で弁護側は、1審判決が「同症候群に対応できる受け皿が社会にない」とした点を「受け皿はある」と反論。被告と面会した精神保健福祉士が弁護側証人として出廷し、「出所後に支援を受けられる施設はある」と述べた。

 昨年7月の1審判決は、量刑理由を「家族が同居を拒否しており、社会に受け皿がないため再犯の恐れがある。反省も不十分だ」などとしていた。

 1審判決によると、大東被告は約30年間引きこもりだったが、生活の面倒を見ていた姉への逆恨みを募らせ平成23年7月、包丁で何度も刺して殺害した。



そして本日の判決は、求刑を上回る判決を下した一審判決を破棄し、求刑を下回る判決を下した。


2審は求刑下回る懲役14年 発達障害の殺人で大阪高裁

 姉を刺殺したとして殺人罪に問われ、一審・大阪地裁の裁判員裁判で発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響を認定され検察側の求刑懲役16年を超える懲役20年の判決を受けた無職、被告(42)の控訴審判決で、大阪高裁の松尾昭一裁判長は26日、「障害の影響を正当に評価していない」として、一審判決を破棄し、懲役14年を言い渡した。

 昨年7月の地裁の裁判員裁判の判決では、同被告の反省は不十分で、母親らが社会復帰後の同居を断るなど「社会的な受け皿が用意されていない現状では、再犯の恐れがある」と判断。「長期間刑務所に収容することが社会秩序の維持にも資する」として懲役20年が相当とした。

 控訴審判決で松尾裁判長は、大東被告は障害を周囲に気づかれず、適切な支援を受けられないまま約30年間にわたり引きこもり生活をしていたと指摘。「犯行の経緯や動機形成には被告のみを責めることができない障害が介在しており、量刑判断で考慮されるべきだ」と述べた。

 さらに、十分に反省態度を示せないのは障害の影響で、再犯可能性を推認させる状況ではないと判断。社会の受け皿についても「地域生活定着支援センターなどの公的機関による一定の対応があり、受け皿がないとはいえない」と求刑を超える懲役刑を言い渡した一審を破棄した。

 判決によると、大東被告は2011年7月、大阪市平野区で、姉(当時46)の言動が自分への嫌がらせと一方的に恨み、包丁で多数回刺して殺害した。

 日弁連は一審判決後、「刑事施設での治療や矯正プログラムが不十分な実態からすれば、長期収容によって発達障害が改善されるとは期待できない」などとする談話を発表した。




以前から指摘していたのが、一審判決はなぜ、発達障害を理由とした(あるいはしたと判断された)のだろうか、という点だ。
私は元々、発達障害を犯罪の量刑に考慮することは非常に危険だと考えている。軽重どちらに考慮するにせよ、「発達障害」を考慮することそれ自体が、社会に対して危険分子扱いさせる偏見を生成させることになるからである。

例えば、統合失調症を原因とする妄想を起因として、人を殺害したとする。妄想によって犯行当時心神喪失状態にあったとする鑑定書が採用され、裁判所によって心神喪失状態にあったと認定されれば、刑法39条1項により「無罪」になる。
統合失調症患者による殺人事件は、実はそうでない者と比べてそれほど多くないのだといくらデータを示されても、妄想による殺人事件が報道されることにより、そしてその結果「無罪」になったという判決を目にする度に、私たち一般人は恐怖の種を密かに植え付けられる。それは、法律を学んだ者であっても、あるいは心理学を学んだ者であっても、多くの者が密かに患者に対して恐怖心を抱くようになるという事は、実体験上、確実に言える事だ。

私たちが怖れるのは、精神的疾患を原因とした犯罪が実現されることだけではなく、それが実現されたとして、その後、無罪なり量刑考慮によって早期に社会に放たれることによる漠然とした恐怖である。人を殺めた者が戻ってくるのは「更正」した時だけだと信じている社会的秩序が、実はそうではないのだと知らされることである。
発達障害を理由に刑を減免するとする。発達障害とは、刑を左右するほどの重大な障害なのか、との自然な思いが湧く。すると、その思いは自然と、発達障害という症状ないし状態が、社会秩序を脅かす危険な状態であり、その者は危険分子であるという認識を知らず知らずに植え付けられるのである。


だから、一審判決は、発達障害を理由に量刑を重くすべきでなく、一切考慮せずに判決を下すべきであった。そして二審判決も発達障害を理由に量刑を軽くすべきでなく、一切考慮せずに判決を下すべきであった。私はそう考えている。

一審判決が果たして発達障害を理由としたと言えるのか、この報道だけでは分からない。通常量刑に考慮されるべき遺族感情、反省の度合い、更正の可能性といった要素を考えて判決を下したと思えるのだが。
しかし高裁判決は明らかに、発達障害を理由として減刑している。これは危険だ。発達障害によって刑の軽重を左右させるという、障害を利用することを是認すれば、逆に差別と偏見を植え付ける結果になる。こんな簡単なことを、日弁連なり日本発達障害ネットワークなりは、どうして予想しないのだろうか。

ならば、少年期に母を殺害し、出所後間もなく姉妹を殺害した山地悠紀夫はどうだったのか。人格障害を強く疑われながら、まともな精神鑑定も経られることなく死刑判決、速攻執行により闇に葬られた。
これは、当初の裁判があらゆる点で誤りであったことを「なかったこと」にしたとしか思えない。
もし山地の障害が認定されたなら、最初の殺人罪でそのことはどう考慮するのか。考慮したのか。
考慮してもしなくても、彼のその後の人生を左右するものではなかったはずだ。


最大の問題は、受刑中、若しくは出所後、認定された「発達障害」とやらを誰が正面から引受け、誰がサポートするのかという点だ。
それが、恐ろしいことがさりげなく最後に書いてある。


日弁連は一審判決後、「刑事施設での治療や矯正プログラムが不十分な実態からすれば、長期収容によって発達障害が改善されるとは期待できない」などとする談話を発表した。



実際に刑務所を見学したことがあるが、更正や矯正という点において、日本の刑事政策は全くと言っていいほど機能していない。いつも「これからの改善に期待」と言われ続け、一体いつになったら劇的に変わるのかと呆れてしまう。だから、日弁連の指摘は正しい。
そして、ここから先が問題なのだが、では刑事施設を出た後つまり出所後の「治療や矯正プログラムが充分であるという実態」が存在するのかという点についての言及がないのである。
いや、確かに裁判中は「被告と面会した精神保健福祉士」のように、「出所後に支援を受けられる施設はある」とは証言している。しかし、その施設は確実に被告を受け入れてくれるのか?受け入れたとして、その後の矯正プログラムは充分なものなのか?
具体的にそうした疑問に対しては、何の答えもなく、責任も負わない。


結局のところ、この判決は、発達障害への正しい理解と支援といった理念からかけ離れた、偏見と禍根と無用な不安を残しただけだったのではないか。