いじめで重体の生徒と母親、加害少年や市など提訴/地裁川越支部

 川越市で今年1月、市立中学2年だった男子生徒(15)が同級生の少年3人(少年院送致)に暴行されて意識不明の重体になった事件で、男子生徒と母親が4日、加害少年とその保護者、市を相手取って慰謝料など約1億1600万円の損害賠償を求め、さいたま地裁川越支部に提訴した。

 訴状によると、男子生徒は1月5日、野球部の活動終了後、同じ野球部に所属する少年3人に、学校近くにある川越市内の公園まで連れて行かれ、殴る蹴るの暴行を受けた。男子生徒は意識を失ったが、加害少年3人やその場にいたほかの生徒4人はすぐ119番などをせず、その後の通報で救急隊が駆け付けた時には、心肺停止の状態に陥っていたという。男子生徒は一命を取り留めたものの、脳に重度の障害を負い、現在も意識が回復していない。

 原告側は、少年3人の両親が学校側から生活態度について指摘されたが、放任した結果、事件を未然に防止できなかったとして、保護監督の義務を果たしていなかったと指摘。市については、教諭らが男子生徒への3人の暴力を認識していながら、一時的な注意や指導だけで事態を放置、安全配慮義務を怠ったとしている。

 男子生徒側は中学1年の時から、少年3人を含むグループが継続していじめを行っていたと主張。昨年11月下旬から事件前日の今年1月4日までの間、貯水池に入るように命じたり、たばこの火を押し付けるなどの暴行を加えていたという。

 提訴について、市教委は「訴状が届いておらず、正式な連絡もないので、コメントできない」としている。





時々、当ブログの検索ワードを見てみると、「いじめ加害者の心理」というワードが定期的に上位に入る。

「いじめ加害者」と言っても、大きく分けて二通りある。

夏に私が書いた記事では、「加害者にとっていじめは遊び」と断言したが、いじめの内容そのものが加害者にとっては、ストレス発散も含めたレクリエーションになるので、被害者は最悪、自殺に追い込まれるというパターンが一つ。

もう一つは、本件のように、いじめではなく犯罪実行行為そのものと言って良い場合、遊びというよりは、加害者本人に何らかの問題があり(非行少年であったり、家庭環境に問題があったり、何らかの強い怒りと衝動性を抱えている)、被害者に言いがかりをつけて暴行に及ぶので、被害者は最悪、暴行により殺されてしまうというパターンである。

あるいはこの二つのパターンが混在している場合もある。

更に、「集団心理」という厄介な問題が加わり、状況が更に悪化する。
普通、加害者が1人の場合は、犠牲者は出ないものだ。
悲劇的な犠牲者が出る場合はほとんどの場合、加害者は複数であり、また加害者が複数だからこそ悲惨な末路を辿る。
集団暴行が開始された場合、リーダー格が「ストップ」をかけない限り、終わることはない。
そして大概の場合いじめのリーダー格は最もチキンな卑怯者なので、自らストップをかけることはない。なぜ最もチキンで卑怯者かと言えば、集団でしか暴力を振るえないからだ。そういう輩を世間では「卑怯者」と呼ぶのだが、学校ではそう教えてはくれないので、リーダー面してのさばっていられる。
そうして大概の場合・・・
被害者の異常に気付いて、ようやく集団暴行は終わる。手遅れの状態になってようやく。

この、後者の「いじめ」ではなく「犯罪」そのものである場合、加害者の心理を理解するのは非常に難しい。集団での役割があるというだけでなく、私は最近、あることに気付いた。

全国で、報道される程の犯罪化したいじめ事例の多くが、中2に集中している。

中学2年生の男子、15歳の青年心理も理解しないと、彼らの心理は正確に把握できないのではないか。



ところで今回の事件だが、この報道は、地方新聞記事のもので、ヤフーニュースなどでの扱いも小さかった。
夏に私は、大津市皇子山中学いじめ事件が風化することを怖れていたが、結局、何もなかったかのように今年が終わってしまうようだ。
しかもこの記事、「いじめで重体」とかタイトルに書いてあるが、これは酷い間違いだ。これでは「いじめで少年院送致」ということになってしまうではないか。
ここはきちんと、「集団暴行で重体の生徒と母親、加害少年や市など提訴」とした上で、記事の内容に継続的ないじめの事実もあったことを記載すべきである。
メディアがこんな意識だから、全てに於いてダメなのだ。

そういえば、夏に報道された、清瀬市私立東星学園でのいじめによる傷害事件だが、あれはひっそりと「東村山署が被害届不受理」を決めたというのをご存じだろうか?
今年の春に被害届を出そうとしたら、不受理だったというので、改めて夏に、被害届を出すという報道だったのであるが、先月だか、こっそりと再度「不受理決定」したのである。
しかもその理由が、「加害者が刑事未成年である為」と、実に世間を舐めた話なのである。なぜなら、加害者が刑事未成年であるというのは調べなくても明白な事実。しかもその理由で前回不受理なのである。
要は、大津いじめ事件のほとぼりが醒めた頃に、世間を逆なでしないようこっそりと、同じ理由で被害届を拒絶したという、実に姑息な話だという訳である。

桶川ストーカー殺人事件について、清水潔というフォーカスの記者が克明に警察対応と容疑者を追い詰めた優れたルポがあるのだが、最近再読し、改めて警察というところのいい加減さ、非情さを再確認させられた。
あれは、埼玉県警、上尾署という部署が、組織ぐるみで事件を隠蔽し、あまつさえ捏造した恐るべき事件である。上尾署の関係者はその後謎の死を遂げたり自殺したりと、あたかも天罰のように不可解な末路を辿るのであるが、いずれにしても、この本は、警察は最後の砦なんかじゃないということを我々に教えてくれる。


警察を含めた行政は助けてくれない。文科省はじめ学校行政は尚のことだ。
大津いじめ事件があった後、悲劇が起きた学校以外の学校は、朝礼で、あるいは学級の時間で、いじめについて校長以下生徒に真剣に指導しただろうか?大津で亡くなった友達のような子がいないかと目を光らせ、心当たりがあるなら申し出るように第三者的立場の生徒に指導する等(加害者や被害者に自主的に申し出る事を促すのは愚の骨頂である)、「魂をこめた」真剣勝負の指導が各学校であっただろうか?
絶対にないと私は思う。学校にとって、あの事件は対岸の火事に過ぎない。そして、学校がそう捉えている間に、その足元の学校で密かに今日もいじめは起きている。
ちなみに、「命の大切さ」を教えるとか何とか抜かしている学校関係者がいるかもしれないが、命の大切さで聞く耳があるのはせいぜい7~8歳までだ。それ以上になって、命の大切さというお題目を聞かせても耳に入らない。じゃぁどうしたらいいかと言えば、それは私が過去記事にしている通りだ。
それから、被害者に「逃げればいい」という人もいるが、それも通用しない。逃げられないのが学校であり、また被害者も逃げたいけれど逃げたくもないのだ。そこら辺の心理が分からない人は教師になる資格がない。


というわけで結局のところ、頼りになる・・・というより最後の拠り所(砦ではない)になるのは司法の場だけということになる。
自殺の場合は因果関係の壁を乗り越えなければならないが、本件のように明らかに暴行傷害事件であれば、損害賠償は認められやすい筈だ。あとは市や行政に対しての立証(予見可能性等が問題になるだろう)がやや困難だが、ここで証明し易くなるように、学校に対してはしつこいほど、事前に情報を挙げ、被害を訴え、その証拠を残すことが大切だ。

しかし、そんな証拠を残して損害賠償を幾ばくか勝ち取ったとしても、何になるのだろう。親の願いはただ一つ、元気な我が子をかえして欲しい、それだけなのに。
司法で決着を付けるということは、防げなかった悲劇の後始末に過ぎない。ならば。

司法で着いた決着を世間に知らしめること。
そして少なくとも行政に対しては、懲罰的損害賠償を認めること。
これらによって、高額な損害賠償を負わされてしまうという危機感を、親や行政に少しでも植え付けること。

司法で決着を付ける意味があるとしたら、それだけかもしれない。
そしてそれが出来るのはメディアだけなのだ。

やっぱりメディアは、政局やらAKBのニュースばかり取り上げないで、
社会問題をしっかりとりあげないと。


メディアがちゃんとやらないなら、私が草の根ブログでやるしかないか!?!?怒