以前、木嶋佳苗の事件について記事を書いた際、「被告人が女性の、状況証拠のみで有罪とされた殺人事件の公判例」として、和歌山カレー毒殺事件の林受刑者と、恵庭OL殺人事件の大越美奈子受刑者を挙げたが、両者共に無罪を主張し、現在再審請求中である。

この手の事件には、必ず支援者(団体)が存在する。無罪を信じている者の支援者達である。
特に、自白が得られていない以上、直接証拠がなければ間接証拠(状況証拠)のみで有罪認定をしなければならないところ、有罪と言えるだけの証拠が積み上がってもいないのに、強引に罪の成立を認めていると思われる場合もあり、支援者は俄然、ヒートアップする。
特に宣告刑が死刑である場合は、死刑反対論者も加わり、左翼系の方々も合流し、少数ながらも熱い抗議活動が展開されるのが常である。

先頃、このような本が出版された。


  恵庭OL殺人事件~こうして「犯人」は作られた


著者は一審で主任弁護人を務めた、伊東秀子氏である。

一気に読んだ。正直に告白しよう。

私はそれまで、犯人は大越受刑者だと信じて疑わなかった。

それも、事件当時の新聞報道、新潮45の「恵庭美人OL社内恋愛殺人事件」の記事と、記事を再録した新潮文庫「殺ったのはおまえだ-修羅となりし者たち、宿命の9事件」を読んで、そう思いこんでいた。

その心証が、この本を読んで一気にひっくり返った。


私は、この手の支援団体というものはちょっと眉唾というか、思想的な背景を持つ者も含まれており、まずは色眼鏡をかけて見てしまうのだ。
本当にこの人は無罪なのではないか、その純粋な想いだけで、受刑者を支援しようという人もいるのだろうが、まず、私自身がそう思わないことには、その眼鏡は外されない。
つまり・・・私が、その人にまつわる様々な情報に接することで、「この人は本当は無実なのではないか」と感じる事が全てである。
そして、私がそう確信した事件は、東電OL殺人事件のゴビンダさん位である。

この本を読むと、大越受刑者が犯人だとするには、説明できない・あるいは強引な説明をつけるしかない事実が余りに多い事が分かる。
それも、事件に直結する重要な事実ばかりである。

例えば、大越受刑者が被疑者を殺害後、直前に購入した10Lの灯油で焼却したと認定されているのだが、
被害者は炭化する程に焼かれており、10Lの灯油でそこまで焼けるものなのか弁護団は豚で実験したところ、到底足りなかったという。
しかも、警察も同様の実験を行ったらしいと聞き、実験結果の証拠開示請求をしたにもかかわらず、頑なにこれに応じなかったという。

彼女が犯人ではないかと警察にマークされた主な理由は二つである。
一つは、動機。被害者が殺される直前、大越受刑者が付き合っていた男性が、彼女を振って、被害者に乗り換えたのである。

もう一つは、事件前後に、大越受刑者が被害者の携帯電話に無言電話をかけ続けていたという事実である。


そして、これ以外の間接証拠のうち、幾つかは警察若しくは検察官による捏造だという大胆な主張もなされている。
例えば、被害者の会社のロッカーキーが、大越受刑者の車のボックスに入っていたという事実。
まさかと思うかもしれない。しかし、ロッカーキーの発見状況、発見した巡査部長の公判時の証言を聞けば、それもありうるかもしれない・・・との疑念が湧く。

そういえば、戦後の無罪を争った有名な事件として常に筆頭に挙げられる「狭山事件」、あれも、重要な物証であるボールペンだか鉛筆だかが、被告人の家の鴨居の上か何かで、ある日突然、発見されたんだっけ・・・
・・・という過去の例を彷彿とさせる。


「この人は無罪かもしれない」

人がそのように思う過程には、何が必要なのか。

最大のものは、この人はやっていないのではないかと思わせる、客観的証拠と合理的理由の存在である。
正確に言えば、検察官が提出した、「犯人である」とする証拠に相反する事実の存在である。

「恵庭OL殺人事件 こうして犯人は作られた」は、その殆どのページが、公判資料と弁護団が独自に入手・検証した客観的証拠によって占められている。
巻末に、裁判に大きな疑問符をつけた三名の有識者の見解があるのだが、先ずは刑事訴訟法で知らない者はいない白取祐司先生。それから「死体は語る」でお馴染みの監察医の上野正彦先生。弁護士の中山博之先生は存じ上げなかったが、刑事弁護では有名な先生だそうである。
これら三名の方々から、裁判における証拠認定・鑑定方法・証拠開示に応じない検察官の姿勢の三方向から、有罪とする裁判にダメ出しがされているのである。
そんなわけで、一冊読み終われば、殆どの人が「やっていないかもしれない」と心証が傾くに違いないと思う。

しかし、「やっていないかもしれない」と感じさせる間接証拠をいくら積み上げようとも、客観的に説得的な合理的理由を並べ立てられようが、無罪を確信させる為にはもう一つ、必要なものがある。

被告人本人の、本当の心の叫びである。

東電OL殺害事件で、ゴビンダさんに逆転有罪の判決が下った時、「神様、わたし、やってない!神様、助けてください!」と法廷で叫んだと聞き、やっぱりこの人は無罪なのだと、胸が締め付けられる思いがしたものだった。

人は、土壇場に追い詰められると、本性が出る。
思わず、隠しきれない思いが言葉となってほとばしる。
その時の言葉、態度に、不自然なものを感じたのが、木嶋佳苗被告だった。

この本には、意図してか知らずか、大越受刑者の「声」はほとんど書かれていない。
有罪判決の後、裁判官が退廷した後、「私はやっていない!」などと泣きじゃくりながら廊下を引きずられて行ったとか、上告棄却となった後も、「私はずっと無罪を主張していくので、刑務所も満期一杯までいることになるだろう。最後まで宜しくお願いします」と弁護人の目をじっと見つめて言ったとか。

ただ、控訴審の最後の被告人質問は印象に残るものであった。
当然、「私はやっていない」ことを強く訴えるだけなのであるが、
裁判官からの質問に対し、立て板に水と言うにはほど遠い、むしろしどもどろといった口調で応じながらも何とか、弁護人の助け船を得て、「やっていない」ことだけは主張できたのである。
このやりとりを読んで、私はむしろ、窮地に追い込まれた時の人間の自然な反応を感じた。


それは木嶋佳苗の公判記録を読んでも一切湧いてこなかったものだったのである。


是非多くの人に一読してもらい、
自身にどのような思いが湧くか、体験してみて欲しい一冊である。



恵庭OL殺人事件: 「つくられた犯人」からえん罪へ/日本評論社

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そこの司法試験受験生!
刑事訴訟実務の勉強にもなると思います!