時々、反TPP、反グローバリスムの主張をして喝采を浴びる方々は、読者を見下しているのではないのかと思うことがあります。

なぜなら、原典を読めばすぐに間違いだとわかる、論文や文献(場合によっては英語)の紹介をしていることが多々あるからです。

以下は、中野剛志著、『TPP亡国論』(集英社新書)からの引用です。


 このように、「自由貿易が国民経済に利益をもたらす」というのは、どんなときでも正しい原理原則ではないのです。貿易自由化は、デフレ下ではむしろやってはいけません。

 しかし、このように言うと、次のように反論する人が少なくないと思います。「何を馬鹿なことを言っているのか。歴史を知らないのか。一九二九年以降の世界恐慌はひどいデフレだったが、その世界恐慌を悪化させた主な原因は、各国が連鎖的に保護主義に走ったからではないか。現在のような世界不況のときも、警戒すべきは保護主義が台頭することだ。だから、TPPのような枠組みの提案されているのではないのか」。

 確かに、かつてのかつての世界恐慌の時期には、保護主義が台頭していました。そして戦後長い間、保護主義が世界恐慌を深刻化させたと信じられてきました。しかし、近年、この説は有力な経済学者や経済史家によって否定されているのです。

 例えば、ルディガー・ドーンブッシュとスタンリー・フィッシャーは、一九二九年と一九三一年の二年間の景気後退の要因を分析した結果、保護主義による要因は小さなものであったと推計しています。また、バリー・アイケングリーンは、一九二九年のアメリカの保護関税がアメリカ経済にもたらした効果は、保護主義の連鎖による世界貿易の縮小を考慮したとしても、プラスであったとすら考察しています。ピーター・テミンもまた、『大恐慌の教訓』の中で、保護主義が世界恐慌を深刻化させた主たる要因であるという説を否定しています。各国が保護主義に走ると確かに外需は減りますが、他方で内需が拡大するので、トータルの需要はそれほど大きく減らないからです。テミンは、世界恐慌を深刻化させたのは保護貿易ではなく、各国の指導者や政策担当者たちが断行した緊縮財政と高金利政策であったと結論しています。

 ですから、「保護貿易はやってはいけないというのが、世界恐慌という歴史の教訓だ」という話は正しくないのです。(『TPP亡国論』pp.137-138)



……『TPP亡国論』を読んだ人で、ここに紹介されている学者の論文や文献を手にした人は、どれほどいるでしょうか?

この中で唯一、邦訳されたことがあるピーター・テミン著、猪木武徳ほか訳、『大恐慌の教訓』(東洋経済新報社)から、保護貿易について書かれた箇所を紹介しましょう。


なお、文中に出てくるスムート・ホーリー法とは、1930年6月にアメリカで成立・施行された関税に関する法律で、輸入品に高い関税を課し、国内産業の保護を目指したものです。


 スムート=ホーリー関税法が大恐慌の主因だとする考えは根強い。当時からいわれていたことであり、第二次大戦後はルイス(Lewis, 1949, pp.59-61)が、最近ではさらに強い調子でメルツァー(Meltzer, 1976)がこれをくりかえした。通俗的な議論や一般向けの歴史書(Kennedy, 1987, pp.282-283)にもこの見方は入り込んでいる。しかし、広く受け入れられてはいても、この議論は理論的・歴史的根拠からみて破綻している。(『大恐慌の教訓』pp.63-64)



これだけを見れば、中野氏の記述は正しいかのように見えます

ですが、慎重に読んで行くと、テミンが大恐慌の時代に各国が採用した保護貿易政策に賛同していないことがわかります。


 大不況と貿易制限との双方の攻撃にさらされて、国際交易は干上がった。それぞれの国は他国を犠牲にして自国の生産者を守ろうとした。個別的には一連の制限は近隣窮乏化政策だった。それらが合わさってデフレ的インパクトを持ったと考えていいのだろか。平価切下げがそうであるように、総じて有害ではなかったということもありえたのだろうか。


(中略)※ここでは、経済モデルの紹介がなされています。新古典派のモデルに従えば、貿易制限の報復合戦は双方の所得にはほとんど影響がありません。一方、ケイジアン・モデルに従うと、輸出の落ち込みが国内需要の低下をもたらしたという結論に至ります。


 現実の経験は、この中間のどこかにあったわけだ。数量制限と関税によって窒息した需要は、ただ単に消えてしまったわけではない。それらは国内需要に転換されたのだ。しかし資産の転換は即時的でも無費用でもない。したがって転換された需要は、これまで馴染みのパターンに対して完全に代替的なのではなかった。貿易制限は有害であり、ただ通常考えられているほど悪いものではなかっただけのことである。(『大恐慌の教訓』pp.107-108)



ちゃんと、「貿易制限は有害である」と明記しているのです。

ただ単にテミンは、従来の論文で貿易制限の弊害が強調されすぎていたことと、あたかもそれが世界大恐慌の主たる原因であるかのように扱われていたことを非難しているのであって、保護貿易を正当化はしていません。


こうしてみると、中野剛志氏は、読者がこういった絶版となっている専門書に手を伸ばさないのをいいことに、間違った過去の文献紹介をしているとしか思えないのです


なお、テミンも指摘しているように「資産の転換は即時的でも無費用でもない」という点について。

経済理論を離れて、政治に目を移すと1930年代に各国が採った貿易制限政策が国際関係を悪化させたことは間違いありません。


例えば、日本は金本位制からの離脱によってデフレ政策から脱却し、円安で輸出増加と不況脱出を達成しました。

だが、欧米諸国は金融政策による日本の輸出増加について


「非人間的な安い賃金で生産された、不当に安価なモノの輸出をやっている」


として非難し、報復的な関税や数量制限を続けたのです。

特にアメリカはそれが顕著で、やがて反日運動や日本バッシングに発展し、戦争の原因とまでなりました。

関税などの貿易制限は、時として戦争という、とてつもなく高い費用を国々にもたらすというのが歴史の教訓なのです。

なお、この貿易制限と戦争についての考察をしているのは、他ならぬ『大恐慌の教訓』の翻訳者に名を連ねた経済学者・猪木武徳氏だということも明記しておきましょう(『経済学に何ができるか』中公新書)。


いずれにせよ、中野剛志氏が、とんでもない詐欺まがいの記述をしたことは間違いありません。