Diary.2013, May 17, Friday.


日記、2013年。5月17日。金曜日。


もう週末。


一日中、下掲を読み返した。


Paddock, Paul.

China diary. Crisis diplomacy in Dairen.

Iowa Sate University, c1977

パウル・パドック著。

中国日記。外交悶着の大連。

アイオワ州立大学出版部、c1977.


チャックは午後結婚式があるお御堂奉仕。

僕は再度ながら上掲書に読みふけった。


この書は1980年台初期に見つけた蔵書。


僕が1946年秋に大連を脱出した二年後に、著者パドックさんは米国大連駐在領事として、ウラヂボストク経由で大連に送り込まれて、Benninnghoffベニングホフ駐在領事に代わる。(委細を避けて、簡略に記す。)


当時、そのベニングホフ領事さんを僕は知ってた。彼がかわいがっていたスイス籍少女(ブリンナーさん)と僕は仲良しだった。あのころ僕だってまだ十六歳の少年だった。

その少女は、米国産最新式ジープに領事さんに伴なって、ソ連軍占領下の大連を乗り回っていたから眼だった。


上掲書55頁に当時のドイツ副領事エドモンド・シュミット一家に関する記述がある。日本降伏直後、シュミット副領事はソ連軍に逮捕され既にシベリアに連行されていた。彼の息子エドモンド(Jr)は僕の仲間だった。



           フィラデルフィア日記-Dairen Hospital

        xxx

掲載写真の左下端(XXX)あたりの街角にあまりパッとしないにしろ洒落た小住宅に’シュミット一家が住んでいた。


エドモンドJrも僕のような狭間育ちで、独逸と白系露西亜の混血児だった。両親は昭和4年ごろウラヂボストク(浦塩)の独逸領事館で母親ソ連籍のまま結婚し、母親は正当なソ連国籍のままの外交界人間だった。結果として、シュミット一家は大連から正々堂々とたち去ることができたらしい。ほかの、無国籍連中となると、そうは行かなかった。


シベリアに連行された独逸外交官たちは五年以内に釈放されている。(上掲書、57頁)。委細は書かない。


付け加えるが、上述のスイス少女の祖父は日清戦争戦後に朝鮮国王高宗が露西亜領事館避難中に面会して、鴨緑江上流森林の材伐権を得ているし、それが日露戦争の遠因にもなった。キング・アンド・アイ(王様と私)で有名な俳優ユル・ブリンナーの従妹でもある。


ユルは浦塩から、ハルピンに移り、さらにパリーに青年時代に大連経由で移転した。大連のカトリック教会とも一寸関係があった人だ。


以上は、日記記事として書き留めるだけ。