脳がほぐれる言語学―発想の極意 (ちくま新書)/金川 欣二
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言葉の限界が発想の限界





発想は誰にも必要だが、発想の邪魔をするのが偏見である。

そして、その偏見を形作るのが言葉である。


言葉は「両刃の剣」なのである。


ある言葉を知ったと思った瞬間発想はフリーズしてしまう

「日が昇る」「日が落ちる」といった途端に人は

太陽と地球の関係を考えようとはしなくなる。


「リンゴが落ちる」といった途端、重いものは落ちると思ってしまい、

月のように重いものが落ちない理由など考えようともしなくなる。


ガリバー旅行記を知らない人はいない。

「ああ、あの小人の話」と誰だっていうだろう。

でも、作者のスウィフトが描いたのは童話ではない。

子どものためでもない。
ラピュタというと「天空の城ラピュタ」を思い浮かべ、

「ヤフー」というと検索エンジンだったり、株だったり、ソフトバンクだったりするが、

これらがガリバーからきていることを知る人は少ない。


ガリバーが江戸まで来たことがあるのを知っている人も少ない。

ガリバー=小人の国という知識で留まってしまっていて、

「知っている」ことが「本当に知る」ことを妨げる


「知ってるつもり」になってしまう


名前を手に入れた途端に「知ってるつもり」になるから危険である。



オタクの多くがモノを手に入れたとたんに満足するのも同じ心情である。

手に入れたものを離さないので、知が閉鎖的になっているのである。


開かれていない

ややもすると「モノを多く知っていること」「知識が正確であること」

ばかりに気を取られがちである。


知っていることは知らないことだ。



茨木のり子の詩「知」は次のように歌う。


  H2Oという記号を覚えているからといって
  水の性格、本質を知っていることにはならないのだ
  
  仏教の渡来は一二一二年と暗記して
  日本の一二〇〇年代をすっかり解ったようなつもり


  人のさびしさも 悔恨も 頭ではわかる

  その人に特有の怒髪も 切歯扼腕も 目にはみえる

  しかし我が惑乱として密着できてはいないのだ
               知らないに等しかろう(略)



つまり、知るといっても記号だけを知ったのであって、何も知らないのである。

ソクラテスの「無知の知」ではなく「知の無知」なのである。

古くは「一知半解」といって

「なまかじりで知識が十分にその人のものとなっていない」ことを意味したが、

実は半分も分かっていないことが多い。




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