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徒然草ー14
「死」は嫌だからといって逃げていては、
何の解決にもならない
満月の丸さは、いつまでも変わらないものではない。
すぐに欠けてしまう。
気をつけて見ていないと、一晩のうちに、それほど変わるとは思えないであろう。
同様に、病気が重くなると、刻々と悪化して、すぐに死が近づいてくる。
元気な時は、自分はいつまでも平穏に暮らせると思いこんでいるから、
まず、やりたいことを成し遂げてから、心静かに仏法を聞き求めようと考えている。
しかし、ひとたび病気になって死の入口に立たされると、
自分の人生に何一つ満足していないことが知らされ、嘆かざるをえない。
今度もし病気が治って、命を取り留めたら、
心を入れ替えて、あれもこれも、怠けずに、
やり遂げたいと誓いを立てるのであるが、
たちまち病気が重くなり、取り乱して死んでしまう。
世の中の人は、こういうたぐいの人ばかりである。
人々よ、この事実を、何よりも先に、心にとどめておくがよい。
何かを成し遂げて、暇ができたら仏法を聞こうとしていては、
いつまでたっても聞けるものではない。
幻のような一生の中で、何を果たそうとしているのだろうか。
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『徒然草』の特徴の一つは、
「死」に関するテーマが多いことである。
兼好は、人が嫌って、避けようとしている「死」を、
あらゆる角度から書き込んでいる。
そこには、
「嫌だからといって逃げていては、何の解決にもならないぞ。
ある日、突然、直面してから慌てないように、
まず、事実を事実として見つめようじゃないか」
というメッセージが込められているようだ。
実際に、死を直視してこそ、本当にまじめで、真剣な人生を送ることができる。
『徒然草』が、古典の中で最も読まれている理由の一つは、
「より良く生きたい」という日本人の思いの表れではないだろうか。
『徒然草』の、ほぼ最後に当たるこの章には、
死に直面した時の心境が書かれている。
読者の中にも、健康診断で「精密検査を受けてください」と言われて、
ドキッとした経験を持っている人はないだろうか。
検査を受けている間に、
「もしかして、治らない病では」という思いが、ついつい頭をよぎる。
不安がつのると、
「ああ、もっと真剣に○○しておけばよかった」と後悔を始め、
「命があれば、今度こそ、心を入れ替えて取り組もう」と決意する。
ところが、検査の結果が出て、「大丈夫です」と言われたら、
「なーんだ」と、ウソのように不安が吹き飛んでしまう。
「もしかして・・・」と、死の「影」に接しただけでも、こんなに苦しくなるのだから、
「死」そのものに直面した時の心境は、とても平生には想像できないだろう。
七百年前の兼好から、
「いつの時代になっても、こういうたぐいの人ばかりである」
と指摘を受けないように、
私たちも、自分の問題として考えていくようにしたい。
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せっかくなので、原文も。
第二百四十一段
望月の円かなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。
心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様の見えぬにやあらん。
病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。
されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、
常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、
閑かに道を修せんと思ふ程に、
病を受けて死門に臨む時、所願一事も成せず。
言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、
この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、
この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、
やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。
この類のみこそあらめ。
この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
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徒然草、深いですね。
高校の授業でも、こういうのを取り上げてくれればいいのに。
毎度毎度、試験が終わるたびに、
「あぁ、なんでちゃんと勉強しとかなかったんだろう・・・」と後悔して、
「次こそ、もっと早めに勉強を始めよう」と決意はする。
そして、何度同じ過ちを繰り返してきたことやら・・・。
一事が万事、とおもうと恐ろしいです。
どうか、人生において、
このような後悔の無いよう、
思い立ったが吉日、
今からしっかり準備しておきたいです。