死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)/岸本 英夫
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 我が生死観




私はここで、生死観を考えるにあたって、

人間が生命飢餓状態になった場合に、

無用の長物になるような観念的要素は、

すべて、問題の外におくこととする。


そして、生命飢餓状態になった私自身にとって

大映しになってきた問題だけにしぼって考えることにする。


生命飢餓状態に身をおいて考えてみると、

平生は漠然と死の恐怖と考えていたことが、

実は、二つの異なった要素を含んでいることがあきらかになる。



その一つは、死そのものではなく、死にいたる人間の肉体の苦痛であり、

他は、生命が断ち切られるということ

すなわち、死そのものに対するおそれである。



この二つは、質的には、まったく異なった要素でありながら、

両者は、時間的にはほとんど同時に人間を襲ってくる。

それで、多くの場合に、両者は混同されてしまう


ところかまわず襲ってくる激痛、高熱、吐瀉、下痢、喀血、呼吸困難、

このような思ってもゾッとするような苦痛なしには、

この人間の肉体は、生命を失ってゆくことのできない場合が多い。


それだけに心を奪われて

それだから自分は死ぬのが怖いのだと思っている素朴な人も多い


しかし、これは、前山の高さに気をとられて、

そのうしろにひかえている真の高山を見誤る考え方である。


肉体の苦痛はいかに激しくとも、

生命を断たれることに対する恐怖は、それよりももっと大きい



(中略)


そこで、死の恐怖について、

死にともなう肉体的な苦痛と、死そのものとを分ける。


そして、ここでは、死の、より中心的な問題として、

生命を断たれるということをめぐる問題だけに、焦点をおいてみる。



生命を断ちきられるということは、

もっとくわしく考えると、どういうことであるか。


それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、たしかである。


呼吸はとまり、心臓は停止する。

もはや肉体は、個体としての機能的活動をしなくなる。

その結果、肉体はあるいは腐敗し、あるいは焼かれ、自然的要素に分解する。

このように、死によって肉体が分解するというところまでは、

近代文化の中では、だれの考え方も一致する。


しかし、生命体としての人間を構成しているものは、

単に、生理的な肉体だけではない。


すくなくとも、生きている間は、

人間は、精神的な個と考えるのが常識である。

生きている現在においては、自分というものの意識がある。

「この自分」というものがあるのである。


そこで問題は、「この自分」は、死後どうなるかという点に集中してくる

これが人間にとっての大問題となる。





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死の恐怖を二つに分けると、


肉体的苦痛と、死そのものに対する恐れ。


後者は、いわゆる「スピリチュアルペイン」のことでしょう。



この混同が、死を余計に分からなくさせている。


(これは確か、ショーペンハウエルが「自殺について」で言っていた気が。

 後日、紹介したいと思います)



肉体的苦痛から逃れたいがために、安楽死を望む人がいるのも、

この当たりに注目した議論を中心に、展開するべきと思います。


肉体的苦痛に関しては、緩和医療の進歩によって、

かなりのことが出来るようになっていると聞きます。

(大津秀一先生の本とかによると)



なればこそ、いよいよ問題になるのは、

「この自分は、死後どうなるか」ということ。


人間にとっての大問題に、正面から取り組むべき時代になってきているようです。



とはいえ、肉体的苦痛は、医学の分野ですが、


「人間にとっての大問題」と言われるこの問題は、


正直、医学の範囲を超えた問題。



だからといって、放っておいていいことでもないはず。



その辺のバランスが、カギになりそうです。












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