無痛文明論/森岡 正博
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「私の死」と無痛文明



「私の死」、それは、

私の意志とは無関係に突然襲ってくる、

このうえなく怖ろしい観念である。


それが私の脳を直撃したが最後、

私の身体は震え、まともに立つことすらできなくなる。


それが最初に私を襲ったのは、十代はじめのころだった。

それ以来ずっと、私は「私の死」のことを考えている。

「私の死」は甘美であるという人がいるが、私は違う。

私にとって、それは、恐怖以外のなにものでもない。



哲学は死の思索とともに開始されたと言われている。

しかし、死をめぐる哲学書は、ほとんど私の役に立たなかった。


二〇世紀にもっとも死について深く思索したと言われるハイデガーですら、

私にとっては陳腐なものに見えた。


ハイデガーは言う。


私は、私自身の「死へと臨む存在」である。

私の死とは、そもそも、ひとごとではない

確実な、追い越すことのできない可能性である。

私の生とは、みずからの存在が消滅するという可能性に向かって生きることである。


死は「それへ臨む態度において可能性として耐え抜かれなくてはならない」(『存在と時間』)。


ハイデガーはそのことを「覚悟性」と呼ぶ。


「覚悟性はひとごとではない負い目ある存在へ向かって

 沈黙のうちに、不安を辞せずに、おのれを投企することである」(同書)。


それは、死へ臨む存在において、「先駆的な覚悟性」となる。


しかしながら、ハイデガーは、私のもっとも知りたかったことに答えていない


すなわち、「私の死」はどうしてこんなに「恐怖」なのかということ。


そして「私の死」という恐怖から逃れるためにはどうすればいいのかということ。


この「二〇世紀最大の哲学者」は、

私がもっとも知りたかったこの二点について、

正面からは答えず、ただ死へ臨む先駆的な覚悟を強調するのみであった。


彼の主著『存在と時間』は、

「死へ臨む存在」については饒舌に語りながらも、

死の恐怖について語った個所は少ない。


ハイデガーは、死の恐怖の問題などは

そもそも哲学の答えるべき問いではないと言っているようにすら見える。


彼は、存在的な問いと、存在論的な問いを区別し、

『存在と時間』ではもっぱら後者の問いに集中していった。


その意味で、「死の恐怖」の問題は、

彼の眼中にはそもそもなかったのかもしれない。


しかし、「死へ臨む存在」について語りながら、

死の恐怖について本格的に語らないというのは、

いったいどういうことなのか私には理解できない。




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なぜ、死が恐ろしいのか。


これに正面から答えるのは、

ハイデガーでも難しいと。。。


とはいえ、仕方ないとアキラメルのも嫌だし・・・。


アキラメたら、そこで止まってしまうというか、何も進みませんし。



ならば、できることから一つ一つ。


まずは、死を想うことの難しさを、学んでいこうと思います。








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