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- 私は兵隊に行くときにショックを受けました。
- まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
- いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、
- 死ぬことがよくわからなかった。
- 自分は死にたくないのです。
- ところが国家は死ねという。
- (中略)
- 死んだらどうなるかが、わかりませんでした。
人に聞いてもよくわかりません。
仕方がないので本屋に行きまして、
親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。
非常に分かりやすい文章で、
読んでみると真実のにおいがするのですね。
人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、
何かうそだなと思うことがあります。
『歎異抄』にはそれがありませんでした。
(中略)
ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、
これで行こうと思ったのです。
兵隊になってからは肌身離さず持っていて、
暇さえあれば読んでいました。
私は死亡率が高い戦車隊に取られましたから、
どうせ死ぬだろうと思っていました。
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その歎異抄を読んでみました。
ここまで来ると、
一流の人同士しか分からないような世界が展開されてる感じが。。。
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- 歎異抄をひらく/高森 顕徹
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18 人類の常識を破り、生きる目的を断言された、
親鸞聖人のお言葉
原文 - 煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします
(『歎異抄』後序)
意訳 - 火宅のような不安な世界に住む、
煩悩にまみれた人間のすべては、
そらごと、たわごと、まことばかりで、真実は一つもない。
ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。
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「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」
親鸞聖人は断言される。
人間のあらゆる営みを否定する、
反社会的、反道徳的、常識破りの発言が繰り返される『歎異抄』。
だが、すべては真実信心のむき出しなのだ。
「信心」と聞くと、無宗教のおれには関係ないよ、
とソッポを向く人があるかも知れぬ。
だが“イワシの頭も信心から”というではないか、
広くいえば、仏や神を信ずるだけが信心ではなかろう。
明日もあると「いのち」を信じ、まだまだ元気だと「健康」を信じる。
夫は妻を、妻は夫を、親は子供を、子どもは親を信じて生きている。
金銭や財産の信心もあれば、名誉や地位の信心もある。
マルキストは、共産社会こそ理想と信じている人たちだ。
何を信ずるかは自由だが、なにかを信じなければ生きられない。
生きるとは信ずることだから、誰も無信心ではありえないのだ。
信ずるものに裏切られると、たちまち苦悩に襲われる。
健康に裏切られたのが病苦であり、
恋人に裏切られたのが失恋の悲しみだろう。
夫や妻を亡くして虚脱の人、子どもに先立たれて悲嘆の人、
財産や名誉が胡蝶の夢と化した人、
みな信ずる明かりが消えた、暗い涙の愁嘆場である。
皮肉にも、信じ込みが深いほど、
裏切られた苦悩や怒りは、ますます広まり深さを増す。
生きるため日々悪戦苦闘する我々だが、
決して苦しむために生まれてきたのではない。
生きているわけでもない。
唯一生きる目的は、
生命の歓喜を追い求め、獲得するためなのだ。
誰しもこれに異存はなかろう。
ならば信ずるものの真贋に、
尋常ならざる真剣さが要請されるのも当然ではなかろうか。
果たして我々は、裏切るものか否かの吟味に、
どれほど深刻に考慮し、神経をとぎすませているだろう。
地震、台風、落雷、火災、殺人、傷害、窃盗、
病気や事故、肉親との死別、事業の失敗、リストラなど…。
いつ何が起きるかわからない泡沫の世に生きている。
盛者必衰、会者定離、物盛んなれば即ち衰う。
今は得意の絶頂でも必ず崩落がやって来る。
出会いの喜びがあれば、別れの悲しみが待っている。
ひとつの悩みを乗り越えても、裏切りの尽きぬ不安な世界だから、
火のついた家に喩えて聖人は、「火宅無常の世界」と告発される。
たとえ災害にも遇わず病にもかからずとも、冥土の道に王は無いのだ。
いざ死の厳頭に立てば、どうだろう。
財産も名誉も一時の稲光り、かの太閤の栄華でさえもユメのまたユメ、
天下人の威光は微塵もなく、不滅の光はどこにも見られぬ。
己の信ずるものは永遠だと、なおも幻想する人たちに、
聖人の大音が響流する。
「万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」
そらごと、たわごとに例外はないのだ。
「死んではならぬ」「強く生きよ」と高々と、命の尊重を説いた先生が、
あっさり首を吊って世を驚かす。
なぜか有名人の自殺は美化されるが、
生命の尊厳性が確認されない限り、
自殺の是非も、そらごとたわごとのひとこまにすぎない。
そらごと、たわごとに生きるのは、噴火山上の舞踏に等しく、
不気味な不安に耐えきれず、死を選ぶのもむべなるかなと思われる。
さればこそ、聖人の大啓蒙だ。
「ただ念仏のみぞまことにておわします」
“みな人よ、限りなき生命の歓喜(摂取不捨の利益)を獲て、
ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はないのだよ”
親鸞聖人九十年、唯一のメッセージを伝えんと、
泣く泣く筆を染めた渾身の書が、『歎異抄』と言えよう。
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いざ、自分が死ぬとなって、それでも信じられるものを、
まだまだ死なないと思っている自分は、何か持っているだろうか。。。
自問自答せずにおれません。
決して、苦しむために生まれてきたのではない。
生きているのでもない。
命を延ばすこともまた、苦しませるためではない。
生命の歓喜を味わって頂きたくて、
そのためだけに、医学も発達してきたはずです。
「なぜ生命は尊厳なのか」
これが分からない限り、
自殺の是非も、そらごとたわごとであり、
また、延命の是非も、同じことになってしまうと思います。
事実、延命の是非は、一向に結論が出そうにありません。
どちらも、それなりの言い分はありますが、
どちらも、根拠、決定打に欠ける感があります。
「なぜ命を延ばすのか」
ここが、当たり前のようでいて、
実は、きちんと分かっていないことが、根本的な原因なのでしょう。
生命の尊厳性を信じることができなければ、
患者さんも生きる気力がもてないし、
医療者も、命を延ばそうとする自分の行為を信じることができません。
生きるとは、信じることであり、
命を延ばすことは、命の意味を信じることです。
死の厳頭を前にしても揺るがぬ信念を貫けるよう、
歎異抄も学んでいきたいと思います。