司馬遼太郎全講演 (1) (朝日文庫)/司馬 遼太郎

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私は兵隊に行くときにショックを受けました。
まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、
死ぬことがよくわからなかった。
自分は死にたくないのです。
ところが国家は死ねという。
(中略)

死んだらどうなるかが、わかりませんでした。

人に聞いてもよくわかりません。


仕方がないので本屋に行きまして、

親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。


非常に分かりやすい文章で、

読んでみると真実のにおいがするのですね。


人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、

何かうそだなと思うことがあります。


『歎異抄』にはそれがありませんでした。


(中略)


ここは親鸞聖人にだまされてもいいやという気になって、

これで行こうと思ったのです。

兵隊になってからは肌身離さず持っていて、

暇さえあれば読んでいました。


私は死亡率が高い戦車隊に取られましたから、

どうせ死ぬだろうと思っていました。


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その歎異抄を読んでみました。


ここまで来ると、

一流の人同士しか分からないような世界が展開されてる感じが。。。



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歎異抄をひらく/高森 顕徹
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18 人類の常識を破り、生きる目的を断言された、
                       親鸞聖人のお言葉



原文 - 煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
    万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、
    ただ念仏のみぞまことにておわします

                         (『歎異抄』後序)


意訳 - 火宅のような不安な世界に住む、

     煩悩にまみれた人間のすべては、
     そらごと、たわごと、まことばかりで、真実は一つもない。
     ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。


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「この世のことすべては、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない」

 親鸞聖人は断言される。

人間のあらゆる営みを否定する、

反社会的、反道徳的、常識破りの発言が繰り返される『歎異抄』。

だが、すべては真実信心のむき出しなのだ。



「信心」と聞くと、無宗教のおれには関係ないよ、

とソッポを向く人があるかも知れぬ。

だが“イワシの頭も信心から”というではないか、
広くいえば、仏や神を信ずるだけが信心ではなかろう


 明日もあると「いのち」を信じ、まだまだ元気だと「健康」を信じる
夫は妻を、妻は夫を、親は子供を、子どもは親を信じて生きている。

 金銭や財産の信心もあれば、名誉や地位の信心もある。
マルキストは、共産社会こそ理想と信じている人たちだ。

 何を信ずるかは自由だが、なにかを信じなければ生きられない
生きるとは信ずることだから、誰も無信心ではありえないのだ。

 信ずるものに裏切られると、たちまち苦悩に襲われる。
健康に裏切られたのが病苦であり、

恋人に裏切られたのが失恋の悲しみだろう。

 夫や妻を亡くして虚脱の人、子どもに先立たれて悲嘆の人、
財産や名誉が胡蝶の夢と化した人、

みな信ずる明かりが消えた、暗い涙の愁嘆場である。

 皮肉にも、信じ込みが深いほど、

裏切られた苦悩や怒りは、ますます広まり深さを増す


 生きるため日々悪戦苦闘する我々だが、

決して苦しむために生まれてきたのではない。
生きているわけでもない。

唯一生きる目的は、

生命の歓喜を追い求め、獲得するためなのだ。

誰しもこれに異存はなかろう。

 ならば信ずるものの真贋に、

尋常ならざる真剣さが要請されるのも当然ではなかろうか。

果たして我々は、裏切るものか否かの吟味に、
どれほど深刻に考慮し、神経をとぎすませているだろう。


 地震、台風、落雷、火災、殺人、傷害、窃盗、
病気や事故、肉親との死別、事業の失敗、リストラなど…。
いつ何が起きるかわからない泡沫の世に生きている。

 盛者必衰、会者定離、物盛んなれば即ち衰う。

今は得意の絶頂でも必ず崩落がやって来る。

出会いの喜びがあれば、別れの悲しみが待っている。

 ひとつの悩みを乗り越えても、裏切りの尽きぬ不安な世界だから、
火のついた家に喩えて聖人は、「火宅無常の世界」と告発される。

 たとえ災害にも遇わず病にもかからずとも、冥土の道に王は無いのだ。

 いざ死の厳頭に立てば、どうだろう。
財産も名誉も一時の稲光り、かの太閤の栄華でさえもユメのまたユメ、
天下人の威光は微塵もなく、不滅の光はどこにも見られぬ。

 己の信ずるものは永遠だと、なおも幻想する人たちに、

聖人の大音が響流する。


「万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」


そらごと、たわごとに例外はないのだ。


「死んではならぬ」「強く生きよ」と高々と、命の尊重を説いた先生が、
あっさり首を吊って世を驚かす。

なぜか有名人の自殺は美化されるが、

生命の尊厳性が確認されない限り、
自殺の是非も、そらごとたわごとのひとこまにすぎない。

 そらごと、たわごとに生きるのは、噴火山上の舞踏に等しく
不気味な不安に耐えきれず、死を選ぶのもむべなるかなと思われる。


 さればこそ、聖人の大啓蒙だ。


「ただ念仏のみぞまことにておわします」

“みな人よ、限りなき生命の歓喜(摂取不捨の利益)を獲て、
 ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はないのだよ”


親鸞聖人九十年、唯一のメッセージを伝えんと、
泣く泣く筆を染めた渾身の書が、『歎異抄』と言えよう。





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いざ、自分が死ぬとなって、それでも信じられるものを、

まだまだ死なないと思っている自分は、何か持っているだろうか。。。


自問自答せずにおれません。



決して、苦しむために生まれてきたのではない。

生きているのでもない。


命を延ばすこともまた、苦しませるためではない。


生命の歓喜を味わって頂きたくて、

そのためだけに、医学も発達してきたはずです。



「なぜ生命は尊厳なのか」


これが分からない限り、

自殺の是非も、そらごとたわごとであり、

また、延命の是非も、同じことになってしまうと思います。


事実、延命の是非は、一向に結論が出そうにありません。


どちらも、それなりの言い分はありますが、

どちらも、根拠、決定打に欠ける感があります。


「なぜ命を延ばすのか」


ここが、当たり前のようでいて、

実は、きちんと分かっていないことが、根本的な原因なのでしょう。


生命の尊厳性を信じることができなければ、

患者さんも生きる気力がもてないし、

医療者も、命を延ばそうとする自分の行為を信じることができません。


生きるとは、信じることであり、

命を延ばすことは、命の意味を信じることです


死の厳頭を前にしても揺るがぬ信念を貫けるよう、

歎異抄も学んでいきたいと思います。







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