世襲か官僚かそれが問題だ | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

明治以前、日本は封建制度という地方分権制度を採用しておりました。開国以来、それまで培った文化をカタパルトとして日本は世界的に見て驚異的な躍進を遂げ、その道徳観、倫理観も世界的に賞賛され尊敬されてきました。

しかし、原発事故で白日の下に晒されてしまった官僚や御用学者たちのあの体たらくさを見せられた今日、明治政府が地方分権制を壊して、中央集権制という官僚天国にしてしまった附けが150年後にいよいよ現れたのだと思います。世界の歴史を見ていると、どの国でもどの時代でも官僚は国の癌でした。そうでなかったためしがない。人類が未だにそれを学ばないのが不思議でなりません。

下の新聞記事は日本の官僚主義について述べているようですが、この縦割り制度はどの国の官僚でも同じです。2013年2月21日付けのブログ『21世紀は慢性肝炎が国民病になる』でも具体例を挙げて話しましたように、官僚は国のことなど全く考えておらず、自分が属している組織が自分たちの互助組合として安定して存在するように、自分たちのことだけを考えている連中です。その点では、組合の幹部たちも同じです。

組織の恐ろしさは、個人の意志をその組織の論理に巻き込んで行ってしまうところにあります。

texas-no-kumagusuのブログ-官僚主義の弱点


また、次の写真は、政策評価・広聴広報課の官僚である課長の佐藤暁(経産省、原子力安全・保安院原子力安全広報課長)と福島県民との公聴会でのやり取りです。

texas-no-kumagusuのブログ-広報課課長


福島県民質問者
「福島県民も他の日本国民と同じ無用な被ばくをせずに生活する権利があるでしょう?」
佐藤暁課長
「政府として出来るだけ被ばくを少なくしていく取り組みはしております。」
福島県民
「つまり、ないということですか?」
佐藤課長
権利があるかないかは私にはわかりません。

どうです、官僚が自分の出世のための保身しか考えていないことがこれほど露骨に現れた発言も珍しいんじゃないですか。下手なこと言うと自分の出世が吹っ飛んでしまうのでびくびくしながら答えているのです。もしこの方が、自分の保身や経産省の責任逃れのために言質の尻尾を取られないようにすることばかり考えているのでなく、福島県民のことも本気で考えていたら、

「もちろんその権利はありますよ。ですからこの困難な状況でも皆さんの権利を守るべく、私たちも最大限の努力をしているのです。この混乱故にまだまだ至らないこともありましょうが、皆さんと共にこの難局を一日も早く乗り越えられるように頑張って行きましょう。」

とでも言えたはずです。しかし、ここまで下手に受け答えしてしまったら、同僚の官僚たちが「これならこいつを追い越せる。俺だったらもっと巧く答えるのに」って、陰でほくそ笑んでいるのが目に見えるようです。

◆『21世紀は慢性肝炎が国民病になる』で紹介した、国民の健康など全く考えない厚生省の官僚たち。

◆原発関連の不祥事で更迭されたことを理由に、それが規則だと言う理屈で退職金を上積みした経産省と原子力安全保安院のトップ官僚たち。

◆東北大震災の復興予算の基本方針に「全国的緊急に」という一文を潜り込ませて、それを根拠に東北の被災者たちに行くはずだった予算にゴマのハエのごとく群がり、その金を横取りした各省庁の官僚たち。

官僚の世界には倫理が存在しないという事実を知るのに、これ以上どれだけの証拠が要るのでしょうか。

私は子供の頃から性善説は分るが性悪説は全く分らなかったので、性悪説は本来日本に馴染じまない外国起源の概念だと思っていました。しかし最近では、この一連の官僚の生態を見ていると、性悪説って、事の本質を見るのに日本でも意外に重要ではないかと考えるようになりました。だから、こいつらの自然の振る舞いに任していてはだめで、国民が徹底的に監視して規則でがんじがらめにしなくては、官僚はその本性故に悪事を為すのではないかと。

官僚は現実の世界では間違いばかりやってきた。しかし、官僚の世界には理屈の上だけの無謬性という、虚構に基づいた責任逃れの自己保身だけがあり、倫理が存在しない。だから癌なのです。


  ところで、官僚は与えられた既存の規則を如何に効率よく適用するかでその能力が試されます。一方、政治家は既存の規則を如何にもっと適切な規則に置き換えられるかでその能力が試されます。官僚に改革は出来ない、しかし、政治家の役割は改革だ。

官僚は改革をしないで、現状維持を至上命令とした与えられた規則だけに従うように特別な訓練を受けているのです。現状維持は自分たちが今まで手に入れた既得権益を確実に守るからです。だから、法改正の原案を作るときでも、霞ヶ関文学を駆使して現状維持か自分たちの権益の増大に汲々としている。そして、その訓練に順応できた者だけが出世できるようになっている。

だから、政治家と官僚は水と油の関係にあります。なのに日本には、官僚出身の政治家と言う、あり得ないはずのカレー粉抜きのカレーライスが多過ぎます。

私は、世襲の政治家が最近やたらと多くなって来たのを憂いていたのですが、彼等は少なくとも官僚出身ではない。だから、世襲という汚物と、組合などの組織出身者や官僚と言う汚物のどちらかしか選択肢がないなら、世襲と言う汚物を選ぶ方が増しではないかと、このごろ考えるようになってきました。

いずれにしても、

「どの国民も、自分たちより優れた政治家を選ぶことは出来ない」

という金言が重たく響いてきます。

私たちも、政治家の程度を観察することで、私たち自身の程度を観察して行きましょう。