そのような状況に落ち行ったのは、ほとんどの場合指導教官に責任があります。要するに、指導教官が仕事はどういう具合にやるものか理解しておらず、行き当たりばったりの成り行き任せでやっているからです。
先ず、研究課題は一つだけではだめす。必ず複数個の課題を用意する必要がある。しかしその課題は、てんでバラバラではだめで、どこかで互いに関連が付いているような課題を選ぶ必要がある。
そして研究を始めるときは、重要な問題から手を付けるのではなく、一番手っ取り早く答えが出せそうな問題から始めます。でもほとんどの場合、始めに手を付けたその問題で既に行き詰まってしまいます。だから、課題一つだけの人は、それで一巻の終わりです。そんなとき、まだ手の付けていなかった残りの課題で、 次に易しそうな問題に移るのです。
始めた当初この課題が難しそうに見えていたとしても、それに関連したもっと易しい問題の一部に既に手を付けた後では、今まで見えなかった部分も見えるようになっています。だから大抵の場合、その二番目の課題も結構進歩させることが出来ます。そしてまた、その二番目の課題に行き詰まります。しかし、その二番目の課題の進歩のおかげで、一番目で行き詰まっていた部分の問題が解けたり、あるいは、もっと難しそうに見えた三番目の課題が易しそうに見えてきます。このように、複数個の課題を交互に同時進行で解いて行くと、段々と全体像が完成して行きます。
また、易しい問題から始めるので、課題の重要性にかかわりなく、ある問題が解けたときに達成感が得られます。さらに、重要でないとは言え、その小さな課題に関して論文が書ける内容が貯まってくるので、焦ることもなく自信もついてきます。


実は、論文を書くにはそれよりもっと重要な奥義があるのです。これは、どちらかと言うと指導教官の資質に関係あります。指導教官は盲滅法に課題を与えている訳ではなく、それなりの見通しがあって課題を選んでいます。
当たり前のことですが、研究は、その答えが誰にも解らないからやるのです。だから、指導教官だって、答えが解っている訳ではありません。そこで指導教官は今までの自分の経験から、この事象を調べるとどのような結果が得られそうだと言う仮説を立てます。そして、その仮説が証明できたらどんなに有意義で面白そうだと言うことを学生に伝え、かつ勇気づけるのです。ここまでは、どの指導教官でもやることです。
そこで学生はその仮説を確認すべく、日夜血のにじむような努力をします。ところが、答えは前もって解っている訳ではありませんので、研究を続けるうちに、 その仮説が間違っていることに気付くことがしばしばあります。今まで何年もかけてやってきたのに、自分たちの立てた仮説が否定されてしまって、最早論文も書けず、学生も指導教官も絶望するのです。こんな状況に陥った学生に何人もお目に掛かったことがあります。
でも、これは学生のせいではなく、指導教官のせいなのです。私だったら、その仮説が間違っていたことが確認できたら、歓喜して、その学生を祝福します。
そもそも、そのような仮説を立てた訳は、その仮説には誰が見たって合理性があると思ったからです。だからその問題を見たら、私だけでなく、十分に訓練を積んだ科学者ならほとんどの人が同じような仮説を立てるはずです。ところが、その仮説は間違いであった。と言うことは、その問題には誰が見ても陥ってしまう想定外の落とし穴があることを発見したと言うことです。だから、始めに立てた仮説が間違いであったことを示せたことは、科学の世界で重要な寄与をしたことになります。だから、仮説が肯定された場合にはもちろん論文が書けますが、それが否定された場合には、もっと良い論文が書けるのです。
このことは、何か問題を解くにあたって、始めに立てた仮説が巧く行った場合ばかりでなく、それが巧く行かなかった場合にはどんな素晴らしいことが起こるかを、前もって考えておく必要があることを教えてくれています。
巧く行ったら皆でお祝いのビールを飲む。巧く行かなかったら、万歳と、またビールを飲んでお祝いをする。このようにすれば、何が起ころうとも必ず論文が書け、絶望することはあり得ないのです。
だから、その仮説が巧く行かなかった場合に、それが何を意味するかを考えておかなかった指導教官に全ての責任があると私は言っているのです。
どうです、この私のやり方を実行しても論文が書けないなんて状況が来たら、それこそまた想定外の発見をしたことになり、そのことに関しての論文が書けるんじゃないですか?