たまたま研究者になろうとしたり、あるいは、なってしまった貴方に研究者としての能力があるかどうか、どう判断したら良いでしょう。
先ず言えることは、所謂専門家たちの間での評価は当てになりません。そのことに関して、私がその経験者から聞いた話を紹介しましょう。これは外国のある大学で実際に起こった話です。
その大学には学部以外に幾つかの研究センターがあり、予算も別口で出ていました。そして時々、ある年にある一つのセンターを抜き打ちで選んで、そのセンターがそれを存続させるだけの研究成果を上げているか審査します。そしてある年、その方が属しているセンターの抜き打ちの審査があったのです。学内外の専門家からなる委員会の審査の結果、そのセンターは存続する価値がないとのお達しが出ました。委員会曰く、
「このセンターでは、世界が今注目している問題を研究せずに、自分たちで問題を作って、自分たちでその問題を解いているだけだ」
要するに、流行を追っていないと言うのが理由でした。そのセンターを閉じてその構成員の転職先を探す時間的猶予を与えるために、閉鎖は一年後と決まりました。
ところが、その決まった年の10月に、その方がノーベル賞をもらってしまったのです。もちろん、閉鎖は取り消されました。それどころか、そのセンターはいきなりその大学の看板センターになってしまったのです。
どうです、専門家って全く当てにならないでしょう。この事件で誰が好運だったかと言うて、その大学ほど幸運だった者はいないでしょう。もし、この抜き打ち審査がもう一年早かったら、センターが閉鎖された後でその方がノーベル賞をもらってしまい、大学は大恥を掻くところだったのです。さらに、その受賞故に後に付くことになった大学への多額の寄付金も全て吹き飛んでしまうところでした。
私はその方からその経緯を聞いて、
「自分ががやっていることに関して、同業者からの批判は恐るるに足りず」
と言うことを学びました。
但し、ここでちょっと注が必要です。一般の不特定多数の専門家の評は全く当てにならないのですが、自分を育てようとしている指導教官や、同じ目的を達成しようと、互いに切磋琢磨しながら生産的に虚心坦懐に仕事をしている仲間たちの評は比較的当てになります。だから、仕事をするには、皆に受け入れられることを目標とするのは全くの間違いで、「この人」と決めた人に満足してもらうように仕事をするべきです。でも、身内の評価は贔屓目になってしまうこともあるので、これも余り当てにならない可能性もないではないです。
貴方の能力の評価に付いて専門家の意見は当てにならない。身内の評価も当てにならない可能性がある。さあ、貴方の能力はどう判断したら良いのでしょう。
実は、私は自分の能力を自分で判断する方法を見つけたのです。それは、もし貴方が何か新しいことを発見したと思っていたのに、それが既に知られていることが分ったとき、貴方がどう反応するかで決まります。
もし貴方ががっかりしたら、貴方は優れた研究者ではありません。その反対に、それを知って、もし貴方が喜べたなら、貴方は優れた研究者です。
そもそも、その事実が既に知られているというもので、重要でない事実はありません。どうでも良い事実は、知られているもいないも、始めからそんなもの相手にされていないからです。その重要な事実を貴方は誰からも教わらずに、自分で見つけることが出来た。ですから、貴方がもう少し早く生まれていたら、きっとその事象に貴方の名前が付いた可能性すらあったのです。だから、貴方には十分に才能がある。
また、研究の過程で最も難しいのは他人を説得できるかどうかではなくて、それが正しいと自分自身を説得できるかどうかです。例えば私のやっている物理学では、その事実を発見したと言っても、数学的に厳密に正しさが解るようなものはほとんど有りません。
他人が見つけて来たことが間違っていても、その人のせいに出来ますが、自分が見つけたことに関してはそうは行かない。だから、新発見をしたときに、それが正しいかどうか誰よりも疑っているのは、それを発見した本人なのです。だからその人は、何でも良いから自分の見つけたことが正しいと言う証拠が欲しい。そんなとき、ある人がその事実は既に知られていると告げてくれたときの喜びようは有りません。「そうか、私のやったことは正しかったんだ」と感激するのです。
実は、私のまわりの優れた研究者たちは、そのような既知の事実を他人から聞いたり勉強したりするのではなく、自分で見つけて来る経験を何度もしています。本人が新しい発見だと思っていても、大抵の場合、既知なことです。そして、そんなことを十回ぐらいくり返しているうちに、本当に今まで誰も知らなかったことが一回ぐらい見つかる。その結果、その人は新しい発見をしたと、皆から祝福されるのです。
だから、私の経験では、私のまわりで優れた仕事をする人に一発屋は居りませんでした。彼等は、自分の世界で自分の言葉だけで何度も重要な事実を自分なりに発見しています。そして、その中の一つぐらいが、たまたま世間の人も知らなかったと言う形で仕事をしておりました。
だから、たまたま一度も世間の人が知らなかったことに遭遇できなかった研究者の中には、いくらでも優れた人がいたのです。
さあ、貴方はがっかりする方ですか、喜ぶ方ですか?