日本人てすごい 10 「貴方が悪い」ではなく「貴方に悪い」 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

私は仕事柄、流行ばかり追いかけてオリジナリティのない学者と称する連中を学者と呼ぶのは、カレー粉の入っていないカレーライスと言っているようなもので、そんな者を学者と呼ぶわけには行かないと思っています。

ですから、外国人の見出して来た世界を勉強してそれを紹介する人たちは学問輸入業者と呼ぶべきで、学者だとは思っておりません。まあ、哲学学者や哲学輸入業者みたいな者です。でも、教科書に書いてあることを人より如何に効率よく覚えられるかを試される試験で受験戦争を勝ち抜いて来た人が大学の先生として生き残れるような制度を続けている限り、こんな輸入業者が大学界ででかい顔をしている状況は今後も変わらないでしょう。

そんな中で私が好きな学問は日本民俗学と、思想界では石門心学です。このどちらも、いくら外国人の言うことを学んだところで、何も得る物が無い。全て、日本人の自前の独創的な世界観を理解しないと何も共感する所がありません。日本民俗学については、いつか別の機会に何か書いてみたいですが、今回は、石門心学について触れてみます。
 
皆さんもご存知のように石門心学は江戸時代中期に石田梅巌が提唱した町人や百姓たちのための実践哲学あるいは実践道徳です。

後にその弟子だった手嶋堵庵により京都で修正舎、時習舎、明倫舎を起こし、また中沢道二によって江戸で参前舎などを次々と起こし、さらに元講談師だった柴田鳩翁の絶妙の道話によって、江戸時代後期には大流行し全国に広まりました。寺子屋の多くも石門心学によって普及されました。

明治政府はその心学の講舎に目を付け、その講舎の一部を間借りする形で西洋式の教育を始め、ついには軒を借して母屋を盗られるようにして、心学が衰退して行くという歴史を辿りました。

 

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                                    石門心学の子供向け講義の風景

この実践哲学がどれほど説得力があったかの証拠が、手嶋堵庵の弟子入りの逸話に残っています: 

彼は豪商の息子で、その家も当時の成功した商家と同じく、商家の息子には学問は御法度であるとの家訓を持っていました。学問を始めると口ばかり達者になって稼業が疎かになり、ついには家を潰してしまうのが通り相場になっているからです。ところがあるとき、堵庵の父親に石田梅巌の講話を聞く機会がありました。そこで正直の徳を説き、自分を殺してでも人やお客さんに尽くす行為が、行く行くは自分に跳ね返って来て、自分も家族も幸せになるという話を聞いて大感激しました。そしてその父親は、老若男女家族一同に梅巌の講話を聴かせるようになったのだそうです。

手練手管の騙し合いの世界で生き残って来たやり手の商売人を説得できたという事実は、その講話の内容自身をどんなに分析するよりも、心学が聴くに値するものであることの、説得力のある重たい証拠です。

心学は神道、儒教、仏教がごちゃ混ぜになったような内容です。そして、その最も尊重するところは上でも触れた「正直の徳」です。後で述べますが、この部分が西洋資本主義の発展の担い手であったプロテスタントと相通じるところがあり、

 「貴方が悪い」 ではなく 「貴方に悪い」

という、近隣の諸国民と比べて抜きん出て滅私の精神をもった日本人を作り出し、それが近代資本主義の驚異的な成功へと導いた日本人の屋台骨を与えて来たのです。

商人を説得できたと言うことからも判るように、心学は、実践すなわち「事実」と、それに対するものとしての「理念」の区別を明確に認識している点にあります。この認識が、それ以前に日本に存在していた外国物の思想、すなわち仏教や儒教とは一線を画す日本人の創り出した独創的な世界観です。

多分、その独創性に辿り着いたのは、神道に原因がありそうです。東大の和辻哲郎学派に留学して日本の風土に合うように独特に変形させられた儒教を研究し、その後テキサス大学に居られ、後にバージニア州のウィリアム・アンド・メリー大学に移られたスカイア博士から聞いた話では、
 
 「神道は教義が存在していないと言う、宗教界には珍しい宗教である」

と言っておられました。理念ではなく、事実ないし実践を重んじるいかにも日本人らしい宗教ですね。確かに、日本人が神道から学ぶ最も大切なことは、この世界の成り立ちを説く理念ではなく、「かたじけない」とか「ありがたい」と言う感謝の気持ちですからね。

 なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる

ところが、理念の世界に生きるお勉強好きな深窓の仏教や儒教の学徒たちや、後の西洋学問輸入業者が、心学のごちゃ混ぜなところに不純な物を感じ、日本人が生み出したこの独創的な世界観を顧みなくなってしまったようです。私は、その内容のオリジナリティよりも理屈の整合性に優位性を感じる二番煎じの連中の限界を、ここに見ているような気がします。

実は、私が石門心学の存在を知ったのは、それが実践哲学であると言うことからではありませんでした。全く違った、物理学の問題からでした。

物理学の私の研究テーマは、この宇宙を理解するために最も中心に据える概念は「存在」なのか、それとも「変化」なのかを明らかにしたいと言うことです。

別な言い方をすると、この世界は「決定論的」な、だから全ての物が、陰であれ陽であれ、既に存在している無時間の世界なのか、それとも「確率論的」に時間の流れと共にまだ存在しなかった新しい事象が次々と創り出される変化する世界なのか、どちらなのだろうかと言うことです。

その点、西洋人はユダヤ・キリスト教の一神教の世界観に多大な影響を受けた結果、「存在」が本質であると主張してきた歴史があります。それを見事に凝縮しているのが、物理学の基本法則です。事実、それら運動方程式は所謂「決定論的な微分方程式」で表現されています。

しかし、一方西洋にも「進化論」がある。進化の本質は「変化」です。そして日本人は世界を「諸行無常」、すなわち「変化」と捉えて来た。だから、私は進化論に興味を持っていました。そんなあるとき、ダーウィンよりも半世紀近くも前に、日本人がすでに進化論を、それも自然淘汰に基づく進化論を唱えていたことを知りました。それが、石門心学の学徒である鎌田柳泓の『心学奥の桟』であり、山片蟠桃の『夢の代』だったのです。

私は今から15年以上も前に東京三鷹の国際キリスト教大学の物理の先生方に、この西洋人と日本人の世界観の違いに付いて講義をし、そこで石門心学の進化論に触れました。ところが、その私の講義を哲学科の先生も聴きに来られていて、次のことを教えて下さいました。アメリカ人社会学者のロバート・ベラーが1950年代に書いた『徳川時代の宗教』の中で、西洋以外の国の中でなぜ日本だけが近代化に成功したかについて、この石門心学に鍵があると主張していると言うのです。ベラーはこの本をマックスウ・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の主張に対する反例を示すために書いた、と言っています。その主張とは、資本主義の発達にはキリスト教のプロテスタンティズムが不可欠であるとする主張です。

ベラーは、

「一寸待った。石門心学があるではないか」

と言うのです。

 

 

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あー、また外国人にしてやられたか! 西洋かぶれの学問輸入業者どもよ、日本に関するこんな重要な発見を外国人にやられてしまって、恥を知れ。

でも、そんな似非学者じゃなくて、ビジネスの世界で実践して来た方々が、今でも京都で手嶋堵庵の開校した修正舎を再興して、心学の勉強会を月に一回の割合で開いています。

http://shuseisha.info/event-log.shtml

にその活動報告が出ています。

私も一度その講義を聴きに行きました。日本滞在とタイミングが巧く合ったら、また聴きに行きたいと思っています。ベラー氏が昨年末に日本を訪問して、各地で講演をしたと聞いています。


アメリカ、ハーバード大学ビジネス・スクールの根本思想を一言で言うと、

 「出来るだけ短期間に利潤を最大化し、取れるところから出来るだけ早く取れ」

です。しかし、このやり方は世界中に格差社会を生み出し、経済の閉塞感を持ち来らしてきたことを皆が気付きはじめました。私は、その閉塞感を打破してくれるのが石門心学の正直の徳に基づいた、長い目で見た商売の知恵だと思っています。

皆さん、もう一度日本の先人たちの生み出したこの独創的な哲学を実践してみませんか?