渡辺 通(わたなべ かよう〔とおる〕、永正8年(1511年)? - 天文12年(1543年)[1])は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。父は渡辺勝。子は渡辺長。通称、太郎左衛門。渡辺氏は源頼光の家臣渡辺綱の流れを汲む一族[1]と伝え、嵯峨源氏の伝統に従い、代々一字名を名乗った。
ー 生涯 -
1524年、父が毛利元就の弟の相合元綱を擁立して反乱を起こそうとしたため殺害されると、通は備後国人の山内直通の元に逃亡するが、成人後に許されて元就の家臣となった[1]。なお、「通」という諱は恩人の直通の一字に由来する。
吉田郡山城の戦いにおいては、元就の作戦に従って別働隊を率いて伏兵となり、奇襲によって数倍の兵力を擁する尼子誠久を撃破している。
大内氏の第一次月山富田城の戦いに毛利家臣として参加するも、1543年に大内氏が配下の裏切りにより尼子氏に敗北したため、大内氏傘下の元就も撤退を余儀なくされる。領国の安芸へ撤退する途中、石見の大江坂七曲りで、尼子軍に追い詰められた元就の身代わりになって通はおとり役を引き受け、その後他の6人の毛利家臣(内藤九郎ら)と奮戦した末に討死した。彼らが戦死した場所が、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂といわれる[2]。
無事安芸への帰還を果たした元就は、通の献身に感動し、決して渡辺の家を見捨てないと誓い、通の遺子の長を股肱の臣として重用した。その態度は毛利家の子々孫々まで受け継がれ、長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々、渡辺家の者が先頭の栄誉に与かることになった。通は自分の身を犠牲にして、渡辺家の名誉を回復したのである。
以上、Wikiより。