冷泉隆豊 (れいぜい たかとよ) | げむおた街道をゆく

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冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。本姓は多々良氏。家系は大内氏の支流で、父・冷泉興豊(おきとよ)の時に母方の冷泉家の家号を称して冷泉氏を名乗った(後述の系図を参照)。



ー 生涯 -
永正10年(1513年)、冷泉興豊の子として誕生。
早くから周防国の戦国大名・大内義興に仕え、その死後は子の大内義隆に仕えた。はじめ義隆から偏諱(「隆」の字)の授与を受けて隆祐(たかすけ)、のちに父の一字を取って隆豊と名乗った。大内氏の水軍を率いる立場にあり、大永7年(1527年)には安芸国に進出して仁保島、国府城で戦う。
天文10年(1541年)には安芸武田氏の居城であった安芸佐東銀山城主となる[1]。天文11年(1542年)、義隆に従って尼子氏の出雲国に遠征、月山富田城を包囲するも国人衆らの裏切りにより、全軍撤退した(月山富田城の戦い)。隆豊は、義隆の養子大内晴持が乗る船を手配したが、晴持は撤退中に溺死している[2]。翌年は伊予国に進出。安芸国人の白井房胤(賢胤の父)らとともに、天文15年(1546年)2月に平智島を、翌16年(1547年)5月には中途島を攻めた(安芸府中町史[3])。
しかし、月山富田城の戦いの敗北によって、主君・義隆は文弱に走り、大内家中は相良武任らの文治派と陶隆房(のちの晴賢)らの武断派に別れ、激しい対立が起きる。対立が深刻化すると、両者の暴発を回避すべく、その仲介に奔走するも不首尾に終わった。隆房謀反の噂が山口の街に広がると、陶隆房の誅殺を義隆に進言するも容れられることはなかった。
天文20年(1551年)、陶隆房がついに決起。隆房は周到な根回しを行っており、文治派以外では、義隆に味方する者はほとんどなかった。義隆は山口を脱出し、石見国の吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず、長門国の大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。その最期は壮絶なものだったと伝えられ、攻め寄せる敵兵が恐れを成すまで戦い、火をかけた経蔵に入って辞世を詠んだ後に十文字に割腹、内蔵を天井に投げつけて果てたと伝わる[4][5]。また、隆豊が籠もった経蔵に続く坂道は冷泉坂と呼ばれている[6]。
辞世の句 「みもや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末ものこさず」
武勇に秀でていただけでなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われており、その忠臣ぶりは、高く評価された。
なお、子の元豊は毛利氏に仕え、門司城代を務めたが、1562年、大友氏の攻撃により討死した。その跡は元豊の弟の元満が継ぎ、水軍の将として活躍したが、文禄・慶長の役で討死した。山口県岩国市周東にある冷泉屋敷(冷泉氏館)跡が隆豊らの居館と考えられている[7]。


以上、Wikiより。



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