湯浅隆貞 (ゆあさ たかさだ) | げむおた街道をゆく

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湯浅 五助(ゆあさ ごすけ、生年不詳 - 1600年10月21日(慶長5年9月15日))は、戦国時代の武将。大谷吉継の家臣。諱は隆貞(たかさだ)とされる。



ー 生涯 -
元は関東浪人で、三十代にして大谷吉継に仕えた新参衆、小身の武士であり、馬屋別当の職にあったとされる。吉継の家臣の中でも、特に武勇に秀でた槍の名手であったといわれる。岡部小衛門・富永主膳・中田六兵衛らとはしばしば語らいをなし、「いかにもしつかに物やわらかなるよきもの」と評される人格者、「それほと主人の用に立申候」と評されたという。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。この際、ハンセン病を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わなかった。その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという(『平尾氏箚記』)。
墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されたものである[1]。


以上、Wikiより。



湯浅隆貞