山田長政 (やまだ ながまさ) | げむおた街道をゆく

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山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。



ー 略歴 -
出生は駿河国の駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った[1]。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。その後、アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。



ー 伝説 -
スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績で、アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。
ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(エーカートッサロット王の隠し子と云われ、後のプラーサート・トーン王)と共同でチェーター親王を王に即位させた。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。
その後チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォン王が即位したが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位に付くように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆(リゴール、ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。
長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はカラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。
なお、日本の文学では、長政のタイ名を「オーヤー・セナピモック」、シーウォーラウォンあるいはチャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォンを「オーヤー・カラホム」とし、親しまれている。文学上では、長政が南部の王国の王となったとするものと、知事に任命されたとするものがある。
決定的証拠は無いが、キャプテン・クックよりも先にオーストラリア大陸を「発見」していたとの主張がある[2]。ただし、オーストラリア大陸に初めて到達したヨーロッパ人はクックではなく、オランダ東インド会社の商人ウィレム・ヤンスゾーン(英語版)である(1606年)。
1915年(大正4年)11月10日、贈従四位。


以上、Wikiより。



山田長政