山内一豊 (やまうち かずとよ) | げむおた街道をゆく

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山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏の当主。
父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原氏の娘か)。祖父は山内久豊。兄に山内十郎、弟に山内康豊。妻は内助の功で知られる見性院(「千代」の名で有名だが、実名かどうかは定かでない。若宮友興の娘とも遠藤盛数の娘とも言われる)。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の嫡男・山内忠義(第2代藩主)を養子とした。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに仕え(これにより、三英傑と称される3人に仕えた事になる)、関ヶ原の戦いにおいては徳川方に与した軍功により土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石を領した。土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。



ー 生涯 -

立身
岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる[1]。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。
一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。永禄11年(1568年)頃に織田信長に仕え、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の与力となったと考えられる[2]。
元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し[3]天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った[4]。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。
「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。
これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。この際、秀吉が自身の郎党を持たないことから秀吉の直臣となったとも考えられる。
天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。

豊臣幕下の小大名として
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっている。この後、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主として2万石を領した。同じく秀次の宿老に列した大名として田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らがいる。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、山中城攻めに参加している。まもなく遠江国掛川に5万1000石の所領を与えられた。掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主・中村一氏とともに行っている。また朝鮮の役には他の秀次の宿老格であった諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出している。文禄4年(1595年)には秀次が謀反の疑いで処刑され、一豊と同じく秀次付き重臣であった渡瀬繁詮はこの事件に関わって秀次を弁護したために切腹させられた。しかし一豊は他の宿老の田中・中村・堀尾らとともに無関係の立場を貫き、連座を免れた。このときに秀次の所領から8000石を加増されている。
秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると東軍に与している。この最中、一豊は下野国小山における軍議(いわゆる「小山評定」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言しその歓心を買っている。居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受ける。ただし東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていたことは事実である。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、なんらかの打ち合わせをしていたと考えられる。関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を池田輝政や浅野幸長らと共に破る。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

土佐一国の領主として
慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要なポストを主に旧臣で固めたが、有能な長宗我部旧臣は登用した(例、本山氏・谷氏・吉田氏・武市氏・宮地氏・森氏など)。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅(半右衛門)・乾宣光(七郎左衛門)・乾和三(猪助))を影武者として共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)。
高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(奉行は関ヶ原の戦いの後に浪人となった百々綱家を7000石で招聘、慶長8年(1603年)完成)、城下町の整備を行った。また、慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて[5]、従四位下土佐守に叙任された。
領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。
慶長10年(1605年)、高知城にて病死。享年60。
法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)。
現在、高知城には一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。



ー 逸話 -

戦場で部下に焼き大根を勧められたが、口が臭くなると豊臣秀吉に会う時失礼になると言い断った。
関ヶ原の合戦後の追撃戦で家康に先鋒を求めたが、寛大と評判の一豊が先鋒だと西軍が降伏してしまうためやんわり断られた。
見性院は子宝に恵まれなかったが一豊は側室を作ろうとしなかった。


以上、Wikiより。



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