柳沢元政 (やなぎさわ もとまさ) | げむおた街道をゆく

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柳沢 元政(やなぎさわ もとまさ、1536年(天文5年)- 1613年(慶長18年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。足利氏、毛利氏、豊臣氏、再び毛利氏に仕えた。通称は新右衛門尉、監物。官位は従五位下讃岐守。父は柳原新右衛門。子は柳沢景祐、柳沢元吉。



ー 生涯 -
天文5年(1536年)、柳原新右衛門の子として誕生。 京都の公家・藤原北家の分流柳原家の出身で、父の新右衛門と同じく足利将軍家の12代将軍足利義晴、13代足利義輝、15代足利義昭にわたって仕えた。柳原から柳沢に名字を変えたのは、義輝の命だったとされる。また、武芸の嗜みもあり、永禄12年(1569年)に本圀寺で三好三人衆の襲撃を受けた際には奮戦して義昭を守った(本圀寺の変)。
天正元年(1573年)に義昭が織田信長との対立によって京都から追放されると、元政は上野秀政、真木島昭光、武田信景、六角藤尭らとともにこれに従い、備後国鞆へと移り鞆城に入城して毛利輝元の庇護を受けた。そして、義昭への庇護と引き換えに毛利氏に出仕し、後に周防国の重要拠点である山口高嶺城代にも任じられた。また、足利将軍家の家臣としての立場を利用し、義昭の使者として天正12年(1584年)には肥前国の龍造寺政家、翌13年(1585年)には薩摩国の島津義久との交渉にも当たっている。
天正20年(1592年)から始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、秀吉の家臣に抜擢され、豊臣氏の家臣として備後国や出雲国に所領を与えられ、1万石の所領を得た。文禄2年(1593年)、豊臣姓を下賜された。また秀吉の命により石見銀山の鉱山奉行も務めている。秀吉の死後は、再度毛利氏の家臣に復帰し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏の防長移封に従った。
慶長18年(1613年)に山口で死去し、現在の山口市の俊龍寺に墓がある。
なお、京都の建仁寺霊源院には、慶長4年(1599年)作の柳沢元政像の掛軸、慶長16年(1611年)作の元政の妻の掛軸が収蔵されている。また俊龍寺には元政が建立した秀吉、義輝、義昭、慶寿院(義晴妻)の供養塔が残っている。


以上、Wikiより。



柳沢元政