最上義光 (もがみ よしあき) | げむおた街道をゆく

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最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石[1]の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。



ー 生涯 -

家督相続まで
天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。幼名は白寿。
永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年1558年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁したが、その折に道中の安全と武運長久を祈って義光の母[註 1]が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が現存する。この時義守・義光父子は幕府より御所号で遇されている。永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。
元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解することになる。そして、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。
従来、義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている(詳細は天正最上の乱を参照)。

出羽統一戦
家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、最上氏の家職である羽州探題を自称し[要出典]、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出るなど[註 2]、この時点ではまだ最上一郡[註 3]の支配すらもおぼつかない状態であった。そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。
天正5年(1577年)、天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の女を義光の側室に迎えた(天童御前)。
天正6年(1578年)、上山満兼が伊達輝宗の支援を受けて最上領に侵攻した。義光は粘り強く防衛につとめ攻城戦から野戦に持ち込み、連合軍に手痛い打撃を与えた。浮き足立つ輝宗の陣に、兄の危機を察した妹・義姫が駕籠で乗りつけ、両者を説得して和議を結ばせた(柏木山の戦い)[2]。天正8年(1580年)、義光は満兼の重臣・里見民部に内応すれば上山領を与えると誘いをかけ、これに乗った民部は満兼を殺害して義光に降り、上山城は義光の手に落ちた。
天正9年(1581年)から村山郡にも兵を進め、まずは天童氏の姻戚である小国城主・細川直元を万騎ヶ原の戦いで破り小国城を攻略。夏には小野寺氏重臣の鮭延城主・鮭延秀綱を調略する。
天正10年(1582年)、天童御前が三男・義親を産んで間もなく死亡したため、天童氏との和睦は白紙に戻った。
天正11年(1583年)、庄内の大宝寺義氏が最上攻めを計画したが、義光は事前に大宝寺家臣の東禅寺義長らを内応させており、義長は謀反を起こし逆に義氏を急襲した。不意を突かれた義氏はなすすべも無く自刃した。
天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。
天正14年(1586年)、小野寺義道と有屋峠で戦う。緒戦は敗北するも、嫡男・義康と楯岡満茂らがよく反撃し、小野寺勢を撃退することに成功した。
天正15年(1587年)、大宝寺義氏の弟・義興が上杉景勝に接近を図っているという情報を知った義光は、素早く義興を攻撃して自刃させ、義興の養子・義勝(上杉家臣・本庄繁長の子)は越後に逃れた。
天正16年(1588年)2月、伊達政宗が1万の軍勢で義兄・大崎義隆を攻撃すると(大崎合戦)、義光は援軍5,000を派遣して義隆と共に伊達軍を破ったが、義光の妹・義姫(保春院)が両軍の間に自分の乗った駕籠を置かせて停戦を懇願したため、両者は和議を結んで撤退した。閏5月豊臣秀吉により羽州探題に任命される。[3]8月、最上勢が動けないと判断した上杉家が家臣の本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じ、十五里ヶ原の戦いで最上軍は大敗し、庄内地方は上杉氏の影響下にあった大宝寺氏に奪還された。その後も上杉軍との戦いは続いたが、上杉家の重臣・直江兼続が石田三成経由で豊臣秀吉に接近、義光は以前から懇意であった徳川家康を通じて交渉にあたるも、秀吉の裁定により庄内地方は上杉領として公認された。

豊臣政権下
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石[4][註 4]の安堵を受けた。この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が秋田実季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。
なお小田原参陣前、妹・義姫を利用し政宗毒殺を目論んでいたとされることがあるが、この説が正しいかは諸説ある(義姫参照)。
天正19年(1591年)、家康が九戸政実の乱の征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。また、3男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。
天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。名護屋在陣中、国許の家臣・伊良子信濃守に対して「命の内に今一度、最上の土を踏み申したく候。水を一杯飲みたく候」という主旨の書状を送っており[5]、義光は朝鮮への渡海に対する不安と故郷への想いを募らせていたようである[6]。ただし義光の任務は主に食料調達で、領地の酒田港から船団を仕立てて名護屋に運ぶ任務に留められている[5]。同年より山形城の改築に取り組み始めた。このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられる[7]。
文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。この計略にはまった義道は道為を成敗した。その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。
文禄4年(1595年)、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際(秀次事件)、娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。15歳だった。一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。義光は秀吉の不興を買い、さらに政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。これ以降、慶長伏見地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていく。
慶長3年(1598年)、会津若松城主・蒲生秀行が家臣団の争いを押さえられずに転封されると(蒲生騒動)、会津には上杉景勝が奥羽諸大名の監視と関東の徳川家康牽制のために送り込まれた。景勝とは庄内地方を巡り激しく争ってきた経緯があり、また上杉領が最上領によって会津と庄内・佐渡に分断されることになり、両者の衝突は避けられない状態となった。

慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)
慶長5年(1600年)、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問する。上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵した。家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、政宗、結城秀康らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。
これを受け、奥羽諸将は最上領内から引き上げ始め、中でも領内で一揆が発生した南部利直は、急ぎ引き返した。一方で政宗は孤立を警戒し上杉勢と講和を結ぶ。義光は東軍につく決意を固めていたが、上杉領と接している家臣団はこれに反対し、義光も圧倒的不利を悟り、嫡子・義康を人質に出すことを条件に上杉勢と講和をはかった。しかし、義光が東軍方の秋田実季と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため講和は成立しなかった。こうして最上家は完全に孤立した状態で、上杉家と対峙することとなった。
景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。
わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。他にも上山城の里見民部、湯沢城の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた。
義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請した。この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた(岩崎一揆)。政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。一説によれば、政宗は重臣・片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。
9月29日、上杉軍は関ヶ原の戦いの敗報を聞いて長谷堂城の包囲を解き、米沢城に退却した。西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将が退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し、先頭に立って上杉勢に追いすがった。しかし、敵の一斉射撃に襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局、最上軍はあと一歩のところで兼続を取り逃がしてしまった。兼続の退き際の見事さには、敵である義光も賞賛を惜しまなかったという。
上杉軍が退却すると最上勢は逃げ遅れた上杉勢を素早く追撃し、谷地城(西村山郡河北町)に籠る尾浦城主下秀久を下した。上杉氏が和平交渉へ向けて動いている間に、下秀久を先手として庄内地方に進攻し短期間のうちに十五里ヶ原の戦いで失った旧領の奪還に成功した。
義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。また、秋田実季が東軍を裏切ったとする訴えは、実季を常陸国に移封させる要因の一つともなった。

晩年
江戸幕府成立以降、義光は領内の復興に尽力した。自国の民に対して非常に寛容であり、義光存命中は一揆もほとんど起きなかったと云われる。彼の統治下における善政はのちに「最上源五郎は役をばかけぬ」と謳われた。
居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒で人口19,796人。これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。
農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。最上時代に築かれたこれらの疏水は、今なお庄内平野を潤し続けている。
大宝寺城を改築して鶴ヶ岡城と改称し、自らの隠居所とした。義光と嫡男・義康の関係は当初良好であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。そんな中、慶長8年(1603年、1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない(最上義康参照)。
家康は、義光が近侍させていた次男・家親をことのほか気に入っており、義康廃嫡は家康の意向を受けてとのことだとも言われている。この事件は、義光の最上氏の安泰を計った思いが結果として裏目に出てしまったものといえる。義康の死が最上家改易の遠因になったことは再三指摘されることではあるが、改易には家親の夭折、家臣の強訴といった要素が大きいとの意見もある。城主たちの連合からなる最上家臣団が一枚岩ではなく、義光の力を以てしても統制がとれていなかった面も指摘されている。
義光が行った義康の供養は、駒姫のものと同じく大変手厚いものであった。
慶長16年(1611年)3月、従四位下、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。
慶長18年(1613年)、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に赴き家康に謁して最上家の今後を託した。明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。享年69。葬儀当日、寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。光禅寺は創建当初現在の七日町に在ったが、鳥居氏転封の際鳥居氏の菩提所長源寺と改められ、光禅寺は旧臣らの手によって現在地に移転された。



ー 人物・逸話 -

・人物像
義光は調略による敵陣営の切り崩しを得意とした。内応工作に応じる者が多かったのは、その度量の広さが知れ渡っていたことが大きい。例えば寒河江氏は義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。義光は常々「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。
義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正2年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。
義光は幼少の頃から背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度の背丈に見えたと伝わる。また、力が強く武勇にも優れていた。1561年頃には7,8人がかりで動かしたた大石をやすやすと転がしたという。同年、父の供をして高湯温泉(現:蔵王温泉)へ湯治に行った際、鹿狩りのあと眠りについていたところ、盗賊数十人に襲われた。義光は先頭に立って防戦、二人に重傷を負わせ一人と組み合って刺殺、その際に顔に複数の傷を受けたという。我が子の武勇を賞して父は名刀・笹切(伝貞宗?)を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙していたという(羽陽軍記、奥羽永慶軍記に記述あり)。蔵王温泉には、家臣と力比べをしてただ一人で持ち上げたという「義光公の力石」が残されている。また、最上家に伝わる義光愛用の鉄製の指揮棒は、重量およそ1.8キログラム(刀の約二倍)であり、義光が実戦で使用したとすれば、相当腕力のある人物だったと想像できる。
家臣の制止を振り切った義光が単騎突撃を行い、敵の首を取って自陣に引き返してきたのを見た氏家守棟が涙ながらに「そんなつまらぬ首を誰に見せるおつもりか、御大将ならば軽々しい振る舞いは控えられよ」と諫めたため、義光は面目なさげに首を投げ捨てたという話が伝わっている。
最上伊達両家の抗争を止めよう駕籠で乗り付けた義姫に、幼い我が子が慕い戯れたのを見て号泣したという。
義光は豪傑肌の人物を好むところがあった。義光は、由利一族の大井五郎という剛力のものが横暴だとして、土地の者から討ち果たすよう頼まれた。義光は五郎を山形城に招いたが、5、6人前の食事を平らげる五郎の男ぶりにすっかり感心し、暗殺計画をすべて打ち明け褒美をとらせて帰らせたという。
鮭延秀綱の家臣・鳥海勘兵衛が、義光の正室付きの侍女・花輪に惚れ、隠れて文のやりとりを重ねるようになった。ある日落とした恋文よりこのことが発覚し、義光はこの二人に死罪を命じた。しかし義光は鮭延秀綱の諫言により罰することをとりやめ、花輪を勘兵衛の妻として賜った。勘兵衛はこれに感激し、慶長出羽合戦では鮭延秀綱をかばい討ち死にを遂げ、花輪も夫のあとを追い自害した。勘兵衛の遺書を目にした義光は、二人を罰しようとしたことを大いに恥じ涙を流し、丁重に夫妻を弔った。
妹・義姫との間でやりとりした手紙が現在も多数残されている。「さてもさても御ねんころに候て、一度御めにかかり、そら(虚)もまこと(実)もかたり申度候」といった文面からは、兄妹の仲の良さがよくわかる。長らく、義光はその名前から「よしみつ」、「よしてる」等と呼ばれていたが、彼が義姫に宛てた手紙に自らの名を平仮名で「よしあき」と書いていたことから、「よしあき」が正しい呼び名であることが明らかになった。名護屋滞在中に家臣に当てた書状の一節「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候(最上の)水を一杯のみたく候」は、彼の強い郷土愛をしのばせる。晩年体調を崩すまでは右筆をほとんど使わず、自筆で書状を記していることも注目される。

・肖像画
義光には当時描かれた肖像画は伝わっていない。広く流布している烏帽子姿の肖像画は、近世以降描かれたものと推察される。

・現代
日本三大植木市の一つとされる山形市の「薬師祭植木市」は、義光が大火で失われた緑を取り戻そうと住民に呼びかけたのがはじまりとされている。
山形城にある義光像は馬が二本脚で立つ大変珍しい形をしている。この造型は寄贈者である鈴木傳六(でん六創業者)たっての意向であり、大変難度の高い技術を用いているとのことである。

・文化人として
義光は『伊勢物語』等の古典文学に親しみ、家臣にも文学を熱心に奨励した。特に『源氏物語』に関しては、上洛中に乗阿の講義を受けて切紙(免状)を授与された。また、絵巻物・屏風・陶器等の美術品を蒐集し(家臣の武久昌勝が若狭・酒井氏に仕官するまで所有していたもと伝わる『伴大納言絵詞』も生前蒐集していた可能性がある)、乗阿・山本宗佐らを領内に招聘して(乗阿は慶長8年(1603年)、光明寺の住職として招かれた。彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた)山形城下に桃山文化を移入した。この光明寺には、文禄3年(1594年)7月7日に義光が狩野派の絵師・狩野宗秀(狩野永徳の弟)に描かせてに寄進した、「遊行上人絵巻」(全10巻、重要文化財)が残っている[8]。
義光が残した連歌の数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さである。同席者も里村紹巴をはじめとする錚々たる顔ぶれであり、後陽成天皇から発句を賜ったこともあった。天正20年(1592年)2月には、京の連歌師たちの求めに応じて江口光清に発句を届けさせている。また、連歌の研究書『連歌新式注』一巻も執筆しており、同時代の連歌の主要作家とされる。代表作に「梅咲きて 匂い外なる 四方もなし」などがある。和歌や手紙の文体・書体も秀でている。
最上家は代々宗教の保護に取り組んでおり、義光もまた信仰心があつかった。愛用の指揮棒に「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻していたことからもそのことがよくわかる。天正7年(1579年)8月、義光は重病に罹っていたらしく湯殿山で祈願を行っている。義光は領土拡大と藩政確立に伴い、寺社の建立と保護を行った。最上山専称寺、立石寺、羽黒山、慈恩寺、義光山常念寺(嫡子義康の菩提寺)などは義光時代に創建または再建された寺である。山形一の伽藍を持つ専称寺は、非業の死を遂げた愛娘・駒姫と妻を供養するためのものだといわれ、山形城内から駒姫の居室が移築された。境内には義光が参拝するときに馬を繋いだという伝説のある「駒つなぎの桜」が残されている。

・評価
義光について、軍記物においてであるが、以下のような評価が存在し、英雄視されていたことが分かる。
「義光公は智仁勇の三徳を兼ね、その誉れ世に高し。近隣従ひつかずといふことなし」(『最上義光物語』)
「およそ出羽十二郡の内、秋田城介の所領よりほかは、みな此の人の進退に任せけるは、且つ義光智勇の祖より超越したる故なり。」(『会津四家合考』)
「武勇は人にすぐれ、就中慈悲深くして諸士を深く労はり、たとえば親の子をあはれむ様にこそなし給へ。」(『会津四家合考』)
「其ノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ。誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ。」(『奥羽永慶軍記』)
また、「羽州の狐」、「奥羽の驍将」、「虎将」(官位・近衛少将の漢名である「虎賁郎将」からとった)と称されることがある。


以上、Wikiより。



最上義光