松平広忠 (まつだいら ひろただ) | げむおた街道をゆく

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松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。徳川家康の父。



ー 経歴(一説に) -
「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁)
天文4年(1535年)の清康の死去により、大叔父の松平信定は「虚に乗りて」岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
ここから阿部大蔵定吉の働きに救われる。まず天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・吉良義安の織田氏加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われて三河へ再逃亡。ただ岡崎帰参は叶わぬため、長篠領民を頼んで暫く雌伏。そこから、岡崎帰参を今川義元に執り成してもらうべく駿河へ赴いた大蔵を追うように、遠州「掛塚」に止宿。さらに駿河へ渡って翌9年秋まで滞在する。
天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。広忠の帰城を望む譜代衆の働きで、同11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城。同年6月8日に信定は降参した。(信定は天文7年に死去している。)
天文14年(1545年)岩松八弥による傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。
天文17年(1548年)3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。
天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。


以上、Wikiより。



松平広忠