本願寺証如 (ほんがんじ しょうにょ) | げむおた街道をゆく

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証如(しょうにょ、證如[1])[3]は、戦国時代の浄土真宗の僧。諱は光教。院号は信受院。本願寺第10世。本願寺第8世宗主蓮如の曾孫。



ー 生涯 -
年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。
永正13年11月20日(1516年12月23日[2] )、誕生。父は遍増院円如[4]。母は慶寿院鎮永尼[5]。
大永5年(1525年)、父方の祖父である本願寺第9世宗主実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となる。実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。
大永7年(1527年)、当時の本願寺教団と中央権力との親睦を深め安泰を図るため、摂関家に接近して関白九条尚経の猶子となっている。
享禄4年(1531年)、本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺の戦いまで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めた。
天文元年(1532年)年には、管領細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、三好元長を敗死に追いやったが、晴元はこれによってかえって本願寺の実力を恐れ、京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結んで、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにした(天文法華の乱)。山科本願寺を追われた証如は、居所を大坂の石山御坊に移し、石山本願寺を新たな教団の本拠地とした。その後は晴元の養女(左大臣三条公頼の三女・如春尼。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を長男顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めた。また、天文法華の乱を教訓として、各地の一向一揆に対してもみだりに乱を起こさないように命じている。
天文15年(1546年)には金沢に尾山御坊を築いて同地方における門徒の統制を強化したが、これは朝倉氏との対立もあって、証如の時代には必ずしも十分に達成されなかった。
天文18年(1549年)、後奈良天皇より『三十六人家集』を下賜される。これは、後に顕如の時代に石山合戦の和議に尽くした前関白近衛前久に贈ろうとしたものの、「天下の宝物をみだりに遣り取りすべきでない」として辞退したという代物で現在も西本願寺に所蔵されている国宝である。
また、証如の代に本願寺は、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深める。
天文23年8月13日(1554年9月19日[2] )、39歳にて示寂。本願寺は12歳の顕如が継承する。


以上、Wikiより。



本願寺証如