福原広俊 (ふくはら ひろとし) | げむおた街道をゆく

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福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸毛利氏の家臣。毛利氏の一族である安芸福原氏当主。
永禄10年(1567年)、12代当主・福原元俊の子として誕生。祖父は11代当主・福原貞俊。子は同名の14代当主・元俊(隠岐守)など。
毛利輝元に仕え、天正19年(1591年)に家督を継承する。吉川広家と共に家中で重きをなし、朝鮮出兵に力を発揮した。関ヶ原の戦いにおいては、西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、広家・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と談合の上で徳川家康に内通、領国安堵の約束を取り付けたが、戦後約束は反故にされ、輝元が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。輝元は隠居したため、嫡男で幼少の秀就を広家・益田元祥・毛利秀元と共に支えた。
江戸において江戸幕府との折衝にあたり、毛利氏の居城の場所選定を本多正信・正純父子と話し合い(結果は萩城に決定)、慶長11年(1606年)の江戸城普請を担当するなど幕府との関係維持に腐心、長州藩内部の問題解決にも尽力、萩城築城中に起きた熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)で藩内の動揺を鎮め、藩の政策決定にも関わっている。また、大坂の陣に際して佐野道可事件が発覚すると処理に奔走、元和2年(1616年)に国許へ戻り、元和8年(1622年)に嫡男の元俊に家督を譲り隠居した。
翌9年(1623年)に死去。子孫は代々長州藩の家老を務めた。


以上、Wikiより。



福原広俊