一柳直盛 (ひとつやなぎ なおもり) | げむおた街道をゆく

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一柳 直盛(ひとつやなぎ なおもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
一柳直末の弟。豊臣政権下で尾張黒田藩主。江戸幕府の下で伊勢神戸藩主。晩年に伊予西条藩初代藩主となったが、領知に入る前に死去した。



ー 生涯 -
河野氏の一族である一柳直高の次男として美濃国厚見郡に生まれる[2]。兄・直末に従って武功をあらわし、天正10年(1582年)には備中宿毛塚城攻めで武名をあげた[1]。天正18年(1590年)、小田原征伐で直末が戦死したため、その後を継いで豊臣秀吉に仕える。秀吉から尾張国黒田城を与えられ3万石を知行[2]。天正19年(1591年)、従五位下監物に叙せられる[2]。豊臣秀次に属して各地で奉行として検地に携わった記録が残る。文禄元年には5000石を加増された[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与する。池田輝政・浅野幸長らとともに河田木曽川渡河の戦いや岐阜城攻め(岐阜城の戦い)に加わって功績を挙げたほか、大垣と佐和山の中間に位置する長松城の守備にあたった[2]。このため、戦後に1万5000石の加増を受け、伊勢神戸に5万石の所領を与えられた[2]。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功を挙げた[2]。以後、徳川秀忠・家光の上洛や日光社参に供奉[2]、寛永10年(1633年)には九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている[2]。
寛永13年(1636年)6月1日、1万8000石余を加増の上、伊予国西条へ転封となる[2]。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった[2]。ただし同時に家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したため[2]、直盛の所領は都合6万3000石余である。新たな封地である伊予は、父祖河野氏ゆかりの地であったが、直盛は任地に赴く途上の寛永13年(1636年)8月19日、病のために大坂にて没した。享年73[2]。
大坂上寺町の大仙寺に葬られた[2]。また、伊勢神戸の龍光寺に髪塚がある。
直盛の遺領6万3000石余は分割されて、西条藩を継いだ長男の直重が3万石を相続、また次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ相続した。その後、嫡流は直重の子直興の代で改易されるが、小野藩・小松藩は廃藩置県まで存続した。


以上、Wikiより。



一柳直盛