花房職秀 (はなぶさ もとひで) | げむおた街道をゆく

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花房 職秀(はなぶさ もとひで)は、戦国時代から江戸時代の初期にかけての武将。宇喜多氏の家臣。美作荒神山城城主。花房職勝(職治)の子。後に職之と改名。



ー 生涯 -
天文18年(1549年)、備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・花房職勝(職治)の子として誕生。花房氏は清和源氏足利氏の末裔と称するが、真偽は不明である。
武勇に優れた剛直の士で、永禄10年(1567年)に宇喜多氏に従って足軽大将として出陣して以来、各戦に従軍。永禄12年(1569年)には、備中国をめぐって毛利元就の四男・穂井田元清と交戦した。天正5年(1570年)からは、美作国に荒神山城を築いて国の経営を任された。天正5年(1577年)からは赤松氏・浦上氏と交戦、天正7年(1579年)に主君・宇喜多直家の命令で美作の後藤勝基の三星城を攻め、これを滅ぼした。
その後、宇喜多氏は織田信長・豊臣秀吉に従属。天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐にも従軍した。なお職秀は誰にも憚ることなく諫言を行っており、小田原征伐においては、石垣山城で能や演芸など風流に溺れて、一向に攻城戦を仕掛けない秀吉に対し、城門で秀吉と出会った際に下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と物怖じせずに言い放ったので斬り捨てられそうになったが、主君・宇喜多秀家に取りなしもあり逆に気に入られて加増されたといわれている[1]。また、文禄4年(1595年)には秀家に対して長船綱直を重用することを諫言し殺されそうになる。この際は秀吉の仲介で一命は助けられ、徳川家康の斡旋もあり、常陸国の佐竹義宣に預けられた(この出来事は、1599年の宇喜多氏のお家騒動の遠因となったともいわれている)。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して活躍し、8,000石の所領を得て、旗本寄合に列した。1614年からの大坂の陣にも参加、老骨に鞭打ち、輿に乗りながら采配を執ったというが加増はなかった。また、八丈島に流罪となった旧主・秀家に、毎年20俵の米を送っていたといわれている。
元和2年(1616年)、死去。墓所は岡山市高松の妙玄寺。子に、後に榊原姓を名乗り江戸幕府長崎奉行を務めた榊原職直などがいる。


以上、Wikiより。



花房職秀