畠山高政 (はたけやま たかまさ) | げむおた街道をゆく

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畠山 高政(はたけやま たかまさ)は、戦国時代の紀伊・河内の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。



ー 生涯 -
大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる。
高政が若年の頃の畠山氏は、天文15年(1546年)に三好政長と摂津の舎利寺の戦いで、勝利するなど細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗していたが、河内における実権はほぼ河内守護代の遊佐長教に握られている状態だった。しかし天文20年(1551年)に長教が暗殺されたのを契機として天文22年(1553年)に家督を継ぐ。
その後は天文22年の足利義輝と三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知・安見宗房を援軍に送るなど長慶との同盟関係を維持していたが、永禄元年(1558年)11月30日に宗房との対立が表面化し、居城の河内高屋城を追放されて堺に逃れる。その後三好の力を借りて永禄2年(1559年)8月2日宗房らを追放して高屋城に復帰するも、永禄3年(1560年)に今度は長慶と対立して宗房と和解する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・宗房らは没落した。
河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また紀伊においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年(1561年)、細川晴之(細川晴元の次男)・六角義賢と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年(1562年)3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好実休を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。
永禄9年(1566年)、13代将軍足利義輝(義澄の孫)が討たれると、義輝の実弟である足利義昭(当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続けた、更に三好家の家中分裂が起きると松永久秀方に与する。永禄11年(1568年)には上洛してきた義昭および織田信長に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。義輝の暗殺前後に家督を弟の畠山秋高に譲っており、上洛後は在京している姿が記録に見える。ただ完全に隠居したわけではなく、元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いでは河内に下向して義昭・信長と戦っている。
なお遊佐信教・安見宗房が高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。 天正元年(1573年)に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年(1575年)に信長によって高屋城は破却された。
その後は河内・紀伊を流浪して天正4年(1576年)10月15日に失意の内に死去した(50歳)。晩年はキリスト教の洗礼を受けた。池田丹後守、伊地地文太夫らと関わりがあったため、彼らからキリスト教を紹介されて洗礼を受けたのではないかと推測されている。[2]


以上、Wikiより。



畠山高政