成田長親 (なりた ながちか) | げむおた街道をゆく

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成田 長親(なりた ながちか、天文14年(1545年) - 慶長17年12月4日(1613年1月24日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。成田泰季の嫡男。官職は大蔵大輔。妻は遠山藤九郎(遠山綱景の子)の娘[1]。子に長次、正明、勝明ら。



ー 生涯 -
天文14年(1545年)、成田泰季の嫡男として誕生。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉と後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると、主君の成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父にあたる泰季が城代となって守ったが、泰季が開戦直後に没したためその子・長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。忍城を攻める上方勢は石田三成を総大将とし大谷吉継、長束正家などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な堤防(石田堤)を作って忍城を水攻めするなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は500騎と、士分や武装した農民も含め、計3,000名の手勢で城を守り切った[2](忍城の戦い)。
その後は当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔。出家して自永斎と称し、晩年は尾張国に住んだ。
慶長17年12月4日(1613年1月24日)、死去。菩提寺は名古屋市の大須にある大光院[3]。
また2012年、『のぼうの城』公開に際して成田長親の子孫と、映画中での長親役・野村萬斎、石田三成役・上地雄輔が大光院に集結し成田長親公四百回忌特別法要が執り行われた[3]。


以上、Wikiより。



成田長親