富永 忠安(とみなが ただやす、生没年不詳)は戦国時代の武将。室城主。富永正安の子。万五郎、備前守、右京大夫と称す。妻は松平長親の娘。子は富永忠元。名は「忠康」とも書く。
ー 略歴 -
東条城主吉良持広の家老。松平信定に追われた松平広忠に味方し、天文5年(1536年)9月10日、広忠を室城に迎え入れる。しかし、信定の軍勢に攻撃されたため、閏10月7日、室城を自焼し広忠は今橋(豊橋市)へ移っている[1]。
『西尾私史』によれば、永禄の頃、忠安は領地である設楽郡野田の館に住んでいたが、吉良氏没落後の永禄7年(1564年)3月に鵜ヶ池(現・西尾市鵜ヶ池町)に移り住み、永禄9年(1566年)8月10日に没したという。一方、『岡崎領主古記』(岩瀬文庫蔵)によれば、天文8年(1539年)、吉良持広は織田氏と結び今川義元と断交した。これに対し、持広の弟である荒川義広は、義元に味方し、今川軍を居城である荒川城(現・西尾市八ツ面町)に入れたため、城近くの荒川山(八ツ面山)付近で度々合戦となった。そして8月2日の合戦で、持広と忠安は揃って戦死したという。富永氏の墓がある大通院(西尾市吉良町寺嶋)の過去帳にも、富永一族が同日荒川山で戦死したことが記されている。
以上、Wikiより。