徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名[1]。江戸幕府の初代征夷大将軍[1]。三英傑の一人。海道一の弓取りの異名がある。
家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)[1]。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592年)以降にはふたたび源氏を称している[2]。
ー 概要 -
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した[1]。
家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代[1]。
松平氏は弱小な一地方豪族(国人)であった。家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退[3]。帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう[1]。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした[1]。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(もとのぶ)と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康(もとやす)と名を改めた(「元」は今川義元からの偏諱)[1]。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏(義元の子・氏真)と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)[1]。この際、(義元からの偏諱(一字)を捨てる意味で)名を元康から(松平)家康(いえやす)に改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった[1]。以後近江、遠江、三河などを転戦し、天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の後北条氏、越後の上杉氏と争い(天正壬午の乱)、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた[1]。
天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した[1]。この戦いで家康は軍略的には勝利したものの、政略的には後れをとり、しかし屈服せずに講和[1]。豊臣秀吉が実母を人質にさし出した後に、上洛して豊臣氏に臣下の礼をとった[1]。天正18年(1590年)、小田原征伐において関東を支配していた後北条氏が敗北し退けられた後、秀吉から関東への領地替えを命じられ(関東移封)、長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった[1]。
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利し、その覇権を決定づけた[1]。慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた[1]。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の陣において豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)[1]。
元和2年(1616年)、駿府城にて死去する。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)[1]。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として薬師如来を本地とする神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、信仰の対象となった[1]。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。
ー 生涯 -
幼少期から初陣
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。
3歳の頃、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
6歳の頃、広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に従属し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われるが、どの程度の仲だったのかは不明。
2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の天文18年(1549年)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された[4][5][6]。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。
天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。
清洲同盟から三河国平定
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、ここで自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると、三河国支配を志す。
永禄4年(1561年)4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 1]。折しも今川氏の盟友であった武田信玄・北条氏康は、関東管領上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。なお、この2か月前には将軍足利義輝に馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府に認めて貰おうとしている。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[7]。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。
永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。
翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた[注釈 2]。
永祿7年(1564年)三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、徳川氏に改姓した。
松平家はすくなくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、正親町天皇より「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。近衛前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め、家康個人のみが「徳川」に「復姓」するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。このため、この改姓に伴い、氏を藤原氏としたが、これは家康ひとりのものであった。
秀吉傘下に入った頃にはすでに源氏に復姓していたようで、その頃安房の里見義康(新田一族)に送った起請文では、徳川氏と里見氏が新田一族の同族関係にあることを主張している[注釈 3]。1590年に関東へ移封された前後には、新田一族に繋がる岩松氏の末裔を召し出して新田氏の系譜を尋ねている事項が記録にある。
また、秀吉に臣従後は親族衆として豊臣氏を下賜されるが、その死後、また源氏に復している。
遠江今川領への侵攻
永禄11年(1568年)には、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始し(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、駿河侵攻に呼応した。
同年末からは遠江国の今川領へ侵攻し曳馬城を攻め落とした。軍を退かずに遠江国で越年し、翌永禄12年に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置いた(遠江侵攻)。
武田氏の駿河侵攻に対して今川の同盟国である相模北条氏は武田氏と対抗するが、遠江割譲を条件とする徳川と武田の同盟には摩擦が生じ、家康は駿河侵攻から離脱する。信長とも良好な外交関係を持つ武田氏は家康の懐柔を図るが家康は武田との手切を表明し、以来東海地方における織田・徳川・武田の関係は、武田と織田は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。
永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。
永禄11年に家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)が、左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名[注釈 4]に授けられた官職であり、足利義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[9]。だが、一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために義昭から家康に充てられたとみられる御内書[10]の宛名が徳川改姓・三河守叙任以前の「松平蔵人」になっているためである。これは、松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[11]。後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わり、信長包囲網を形成した際には、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。
武田氏との戦い
武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。永禄11年(1569年)には信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)に遠江国への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真と和睦すると北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、武田氏とは完全に手切となった。[注釈 5]。
家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保し、元亀3年(1572年)10月には徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した[注釈 6]。
当初、武田氏は織田氏とは友好的関係であった。信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際に武田氏もこれに加わり挙兵する。信玄は元亀3年(1572年)10月に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は織田氏に援軍を要請するが、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。
遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。
ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表される身代わりに助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。なお、このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる(三方ヶ原の戦い)。この後、徳川軍は忠世や天野康景らにより武田軍に夜襲を仕掛け、成功したとされる。(犀ヶ岳の戦い)
浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。
武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。
武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。また家臣の大賀弥四郎らが、武田に内通していたとして捕え、鋸挽きで処刑した。信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。
なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。
天正6年、越後上杉氏で御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。勝頼と結んだ上杉景勝が乱を制したことにより武田・北条間の甲相同盟が破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。
また同じ頃、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている[12][13][14](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。
長篠の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを封殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した[注釈 7]。木曾義昌の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)[注釈 8]を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(甲州征伐)。
家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。
また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔し、後に家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信が、徳川家に正式に帰参している。
本能寺の変と天正壬午の乱
天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れたが、信長が家康を謀殺するためという説もあり、本多忠勝など選り抜きの家臣団と共に行動した。
6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。
その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。
一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領全土を委任されていた上野国の滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月程しか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐国の河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。
一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。徳川軍は、この北条軍と新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の二女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。
小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従
信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、さらに影響力を強めた。
信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信忠嫡男・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(「岩田氏覚書」)。
天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は同13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、同17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は同28日に尾張小牧(小牧山)に着陣した。
秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると薬田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。同9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した[注釈 9]。
小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。
戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に叙任され、豊臣政権を確立する。
これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、武田遺臣で沼田領の旧領主で、武田氏滅亡後は信濃国上田城主として自立していた真田昌幸が越後国上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。また同年には、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、重篤に陥るも、最終的には治った。
徳川氏の勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[15]に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[16]。
家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという[17]。
天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、同24日に家康は浜松を出立し上洛している。
家康は同年10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。
豊臣家臣時代
天正14年(1586年)11月1日、京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。このとき、多くの家康家臣も叙任された[18]。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。
天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された。[19]
同年、12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に叙任される(この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである)。このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。
家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文[20]で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。
家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
今月中に兄弟衆を京都に派遣する
豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる
家康の仲介は、氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉は北条氏討伐を開始。家康も諦め豊臣軍の一軍として参戦した(小田原征伐)。
なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得たノウハウと経験は新領地の関東統治に生かされた。
その後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり[注釈 10]、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[20]、結局北条氏の旧領国に移されることになった。
この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある[注釈 11]。
この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした小田原城ではなく、江戸城を居城とした。
関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置する[注釈 12]とともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、その後徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。
天正19年(1591年)6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。 家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。
文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった[注釈 13]。
文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛(これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている)。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[21]。
慶長元年5月8日(1596年)、秀吉の推挙により内大臣に叙される。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。
慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。この時も家康は渡海しなかった。
慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた[21]。 しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。
秀吉死後
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。この頃より家康は参謀の本多正信の献策に従い天下人への道を歩みだす。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。
伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。
この頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。
3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、公平ととれる措置を行った家康の風評が高まると同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。
9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。
9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出し[22]、出兵は取りやめとなる。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。
またこの頃、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。
対馬国の宗義智に1万石を加増。その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)。[23]
遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。
美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。
丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。
薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。
関ヶ原の戦い
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照
慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。
これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争参照。)と呼ばれる書簡を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。
6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。
この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。
さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定) 。
東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政・大久保忠隣・本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。
正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。
9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い。[注釈 14])。
家康は自らの軍師で臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮を行わせ、大吉を得た。
9月15日午前8時頃、美濃国・関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。なお、この日は奇しくも長男・信康の命日であった。
9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。
徳川家康 (とくがわ いえやす)・後編に続く。
→ 徳川家康 (とくがわ いえやす)・後編