戸川達安 (とがわ みちやす) | げむおた街道をゆく

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戸川 達安(とがわ たつやす / みちやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。当初は備前の宇喜多氏の家臣(知行2万5,600石)であったが出奔、備中庭瀬藩初代藩主となる。



ー 生涯 -
備前辛川の役において初陣を飾り、小早川隆景を撃破[1]。父・秀安の隠居により家督を相続し、備前の常山城を守備した、豊臣軍と共に備中高松城攻めに参陣し、毛利方の支城を攻略した。九州征伐[2]、小田原征伐[3]、文禄・慶長の役[4]にも宇喜多軍の主力として出陣、数々の戦功を立てた。「根白坂の戦い」などでの活躍が知られる。当時の宇喜多氏は直家の没後、父の秀安も含めた宇喜多三老と呼ばれる重臣が当主の秀家を後見する体制をとっていた。しかし、天正19年(1591年)に長船貞親が暗殺され、文禄元年(1592年)には、岳父でもある岡豊前守(家利、元忠)が病死し、直家時代の重臣が不在となったため、達安が国政を任されることになる。
しかし、文禄3年(1594年)、突如として秀家からその座を解任された。これは秀家が達安より長船紀伊守を寵愛し、国政を任せたかったためと言われている。しかしこのことで達安は紀伊守と対立し、主君・秀家にも不満を抱くようになる。前田氏から豪姫の輿入れに際し、新たに取り立てられた新参家臣である中村次郎兵衛が秀家の信任を受けると、達安と秀家との溝はますます深まった。秀家や豪姫がキリシタンに関心を示すと、日蓮宗の信者が大半を占める宇喜多家中は動揺し、さらに紀伊守が急死するなど、家中の緊張は臨界点に達する。
慶長5年(1600年)1月、宇喜多家中でお家騒動が発生した(宇喜多騒動)。これは前年に死去した長船紀伊守の後を継いで国政を担った中村次郎兵衛に対して達安が宇喜多詮家や岡越前守とともに反感を持っており、一触即発の事態にまで至ったものである。しかし徳川家康の調停があって宇喜多氏を退去し、家康の家臣となった。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功を挙げ[5](この際に加藤嘉明に陣借りしたともいわれ、また、早島戸川氏に伝わる伝承によれば、石田三成の重臣である島清興を討ち取ったともいう)、戦後、備中庭瀬に3万石を与えられた。大坂の陣にも参陣し、徳川家臣として重用されたという。
跡は次男の正安が嗣いだ。長男に平助(一斎)がいたことが分かっているが、廃嫡されている。また、三男の令安、四男の安尤、五男の安利は旗本としてそれぞれ分家を興している([6])。


以上、Wikiより。



戸川達安