久坂玄瑞 (くさか げんずい) | げむおた街道をゆく

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久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。



ー 経歴 -

幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の吉松塾で四書の素読を受けた(この塾には高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、その僅か数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は六尺(約180cm)ほどの長身で格服がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]。

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。久坂はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、吉田松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]。
まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし、これに対して松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に、「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞のの論を酷評した[9]。
だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に、松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったといういうべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思たのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]。
松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]。
しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の三度目の返信はこれまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]。
松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。
松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるようつとめた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)に安政の大獄によって松陰が刑死した後、文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名)。
この頃から玄瑞は、頻繁に各藩の志士たちと交流し始め、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]。
長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)4月、同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出。京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、長井失脚に成功。玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年二月自刃を命ぜられた)。また、翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。
『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局、「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[16][17]。
同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

英国公使館焼き討ち
江戸に着いた久坂は高杉と合流した。高杉は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は、「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多が巧く裁き、結局、玄瑞も受け入れ長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[18]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け中止に終わった。だがその後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争
その後、玄瑞は、長州に招聘する目的で佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入り京都に着いた。文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて下関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は中山忠光を首領として士卒の意気を高めた。これに藩も加わり、5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

禁門の変(蛤御門の変)
(戦闘に至る経過・詳細等は「禁門の変」項目参照)
文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された。しかしその後も、玄瑞はしばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を図った。その間、三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めていた。
しかし玄瑞は、元治元年(1864年)4月、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都を離れたのを機会と捉え、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を要請した。
6月4日、長州にて進発令が発せられた。また、池田屋事件の報が国許に伝わると、藩は上下を挙げて激発したとされている。久坂は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。
6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し、朝廷に奉った。この段階では長州藩に同情し、寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わってきた。また、その頃幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促していた。
7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれた。
大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。久坂は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島の進撃論と対立した。来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と座を去ったとされている。最年長で参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。
諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる。対して長州藩は2,000に満たない数の兵力で戦いを挑むこととなった。
蛤御門を攻めた来島又兵衛は会津藩隊と交戦したが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、指揮官の来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなった。来島は自害。この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。
来島隊の開戦に遅れて到着した玄瑞・真木らの隊は、既に来島が戦死し、来島隊らが総崩れとなっていることを知ったが、玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への嘆願を要請するため、鷹司邸に近い堺町御門を攻めた。門を守備する越前藩隊を突破できなかったため、隊の兵に塀(生垣)を乗り越えさせて鷹司邸内に侵入して交戦した。玄瑞自身は鷹司邸の裏門から邸内に入った。鷹司邸に入った玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への参内に付随し、嘆願をさせて欲しいと要請したが、輔煕はこれを拒絶、玄瑞を振り切り邸から脱出した。越前藩隊は会津藩から大砲を借り受けて表門から邸内を攻めたため、長州兵は各自逃亡を始めた。鷹司邸は既に炎上し始めていたため、玄瑞は共に自刃しようとする入江九一を説得し「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託した。ただし入江は屋敷を脱出する際に越前兵に見つかり、槍で顔面を刺されて死亡している。
最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
邸宅は炎上した為、玄瑞の遺体は確認されていない、との話がある。入江の首級は変後、福井藩士が藩主・松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した為、明治三十年代に碑石が修築された。この塚にかつては玄瑞も葬られていた、という話がある。



ー 人物評 -

吉田松陰による評
久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。

— 安政4年(1857年)12月5日
「文妹の久坂氏へ嫁ぐに贈る言」

久坂玄瑞は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。しかも、その志気を才で運用する人物である。僕はかねてから、長州藩の若手中では、君を第一流の人物であると、つねに、推奨してきた。今、京都をすぎて江戸にゆこうとしている。すでに、世の中は大変革する兆候があらわれている。君は僕たち仲間の中心人物である。僕は、君の出発にあたって、君に非常の言葉を贈りたい。京都や江戸には、この大変革ととりくむ英雄豪傑が大勢いる。ゆえに、君は、彼らと大いに論じて、何をし、何をすべきかをはっきり見定めて、日本のゆくべき道をあきらかにしてほしい。それができないで、僕が第一流の人物と推奨してきた言葉を単なる私見におわらせるようなことがあれば、君は、天下の有志に対して、大いに恥ずべきである。

— 安政5年(1858年)2月
「久坂玄瑞の壮行を祝して」[19]

僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。その後、高杉晋作を同志として得た。晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、皆もそれを認めるようになった。玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、晋作を推すようになった。晋作も率直に玄瑞の才は当世に比べるものがないと言い始め、二人はお互いに学びあうようになった。僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはないと思ったが、今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。晋作よ、世に才のある人は多い。しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。

— 安政5年(1858年)7月
「高杉晋作の上京にあたっての壮行の辞」[19]

木戸孝允による評
時の急務を知ることは俊傑の天に負う責であり、大義を堅持することは剛者にして初めて可能である。そして、世にこの種の人はまことに稀だ。亡友久坂玄瑞は、幼少より学を好み、剛勇な気性際立って優れ、如何なる場合も俗見に随わず、慨然として天下の志を有していた。しばしば常武・京摂の間を往来して数多の志士に交わったが、それはみな当世の魁傑、ともに時事を討論し、献替して憚るところがなかった。わが長州藩で早くから気骨を高めたのは吉田松陰の徒を第一とするが、実際運動に身を挺せること久坂玄瑞に如く者は一人もいない。ゆえに吉田松陰没して後、玄瑞の風を聞いて意気を奮い起す者すこぶる多かった。時の急務を知る者にあらざれば、いかでかくの如くあり得よう。元治甲子京都の変の時、玄瑞は鷹司卿に謁見し、ある事を請うた。たまたま敵軍大いに迫ったけれども、玄瑞は少しもたじろがず、諄々として大義を説いて止まなかった。ついに用いられぬと知って初めて去り、衆とともに敵を衝いて快戦したが、身に重傷を負ってやむなく退き、自刃した。まさに死なんとして、衆を顧みながら、「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」と云い、あたかも窮迫の様子がなかった。大義を持する者にあらざればかくの如くにありえまい。世に文筆学問の徒は少しとしない。けれども徒に概念の詮索に没頭し、世務の何ものなるかを知らなかったり、名利に汲々として図書の間に老うる者ばかり多い。義勇の士もまた決して少なしとしないが、或るものは暴虎馮河して快とし、或るものは血気にはやって敢えて危険を冒す。玄瑞の如きはこれ等と相去ること大いに遠かった。これを俊傑といい剛者と称するに間違いはなかろう。玄瑞は死んだとき二十五歳であった。惜しいかな。彼をなお世にあらしめ、ますますその志すところを尽くさしめたら、成就するところ現在の如きにとどまらなかったであろうが。この頃、楫取素彦が久坂の遺稿を上梓しようとして、余に序を求めた。引き受けて遺稿を読んで見れば、正気紙面に満ち、光焔凛然、その人なお在るが如くに覚え、巻に対して忸怩たること久しうした。

— 「久坂實甫遺稿」[20]

西郷隆盛による評
お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。

— 「明治維新後、木戸孝允に対して」[20]


以上、Wikiより。



久坂玄瑞