井上馨 (いのうえ かおる) | げむおた街道をゆく

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井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。
幼名は勇吉、通称を聞多(ぶんた、長州藩主・毛利敬親から拝受)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。



ー 生涯 -

生い立ち
長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)の次男として、周防国湯田村(現山口市湯田温泉)に生まれる。嘉永4年(1851年)に兄の井上光遠(五郎三郎)と共に藩校明倫館に入学した後(よく間違えられるが吉田松陰の主催する松下村塾には入学していない)、安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となる(が、後にイギリス密航を機に井上家に復籍)。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れを汲んでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みの良い中級武士であった。
同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向、江戸で伊藤博文と出会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎に師事して蘭学を学んだ。万延元年(1860年)、桜田門外の変の余波で長州藩も警護を固める必要に迫られたため、敬親の小姓に加えられて通称の聞多を与えられ、同年に敬親に従い帰国、敬親の西洋軍事訓練にも加わり、文久2年(1862年)に敬親の養嗣子毛利定広(後の元徳)の小姓役等を勤め江戸へ再下向した[1]。

長州藩士時代
江戸遊学中の文久2年8月に藩の命令で横浜のジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入したが、次第に勃興した尊王攘夷運動に共鳴、同年11月に攘夷計画が漏れて定広の命令で数日間謹慎した。にも関わらず御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。
翌文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助と共に長州五傑の1人としてイギリスへ密航するが、留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)の下関戦争では伊藤と共に急遽帰国して和平交渉に尽力した。
第一次長州征伐では武備恭順を主張したために9月に俗論党(椋梨藤太を参照)に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負った。ただ、芸妓の中西君尾から貰った鏡を懐にしまっていた為、急所を守ることが出来、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受けて一命を取り留めた。この時あまりの重傷に聞多は兄・光遠に介錯を頼んだが、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせた。この時のエピソードは後に第五期国定国語教科書に「母の力」と題して紹介されている。また、寝込んでいた時に伊藤が見舞いに訪れ、危険だから早く離れろと忠告しても伊藤がなかなか承諾しなかったエピソードも後に伊藤が語っている[2]。
体調は回復したが、俗論党の命令で謹慎処分とされ身動きが取れなかったが、高杉晋作らと協調して12月に長府功山寺で決起(功山寺挙兵)、再び藩論を開国攘夷に統一した。しかし慶応元年(1865年)4月、長州藩の支藩長府藩の領土だった下関を外国に向けて開港しようと高杉・伊藤と結託、領地交換で長州藩領にしようと図ったことが攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れ、若松屋旅館の離れの2階に身分を隠して潜伏、別府温泉の古湯楠温泉にてしばらく療養した。5月に伊藤からの手紙で長州藩へ戻り、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟(薩長同盟)、第二次長州征伐で幕府軍に勝利した。
慶応3年(1867年)の王政復古後は新政府から参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督沢宣嘉の参謀となり、長崎へ赴任。浦上四番崩れに関わった後、翌明治元年(1868年)6月に長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事した。明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり(8月に造幣頭と改名)、明治2年から3年(1869年 - 1870年)にかけて発生した長州の奇兵隊脱隊騒動を鎮圧した。この間、明治2年11月に死去した兄の家督を継承、甥で兄の次男勝之助を養子に引き取り、明治3年8月に大隈重信の仲介で新田俊純の娘武子と結婚している[3]。

留守政府時代
明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。しかし大蔵省は民部省と合併して出来た巨大省庁だったため、財政だけでなく地方官僚を通して地方行政にも介入出来るため(元幕臣中野梧一の山口県参事登用など)、予算問題で改革にかかる多額の予算を要求する各省と衝突しただけでなく、学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。また、行政府の右院は各省の長官が構成員であり、前述の関係上対立・機能不全は避けられず、立法府の左院と最高機関である正院も調整力が疑問視されていた。
こうした事態を憂いた井上は大久保の洋行に反対だったが、西郷隆盛が大久保の代理となることで納得した。しかし秩禄処分による武士への補填として吉田清成に命じたアメリカからの外債募集は上手くいかず、明治4年9月に大久保と共に建議した田畑永代売買禁止令・地租改正もまだ実現しておらず財政は窮乏していた。緊縮財政の方針と予算制度確立を図ったが、文部省が学制頒布、司法省が司法改革などで高い定額を要求すると拒絶して予算を削ったことが江藤らの怒りを買い、明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され5月に辞職した。その後9月に使節団が帰国、征韓論を巡る政争や10月の明治六年政変で西郷、江藤、板垣退助らが下野、大蔵省の権限分譲案として内務省が創設されるなど変遷があったが、既に下野していた井上にはそれらに関わりがなかった[4]。

外交と条約改正に尽力
政界から引いた後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆と共に副使として渡海、朝鮮の交渉に当たり2月に日朝修好条規を締結した。6月に欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らと共にアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち7月に帰国した。
大久保暗殺後に伊藤が政権の首班となると、同月に伊藤により参議兼工部卿に就任、翌12年(1879年)に外務卿へ転任、明治14年(1881年)に大隈重信と伊藤が国家構想を巡り対立した時は伊藤と協力して大隈を政界から追放した(明治十四年の政変)。この後も朝鮮との外交に対処、翌明治15年(1882年)で壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、明治17年(1884年)12月の甲申事変で朝鮮宗主国の清が介入すると渡海、翌18年(1885年)1月に朝鮮と漢城条約を締結して危機を脱した(4月に伊藤が清と天津条約を締結)。また、明治16年(1883年)に鹿鳴館を建設して諸外国と不平等条約改正交渉に当たり、明治17年の華族令で伯爵に叙爵された。同年に防長教育会や防長新聞の創設、三井物産相談役のロバート・W・アーウィンを通したハワイの官約移民(明治14年に日本を訪問した国王カラカウアと約束していた)にも尽力している。
明治18年(1885年)、伊藤が内閣総理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生すると、外務卿に代わるポストとして初代外務大臣に就任。引き続き条約改正に専念した。ところが、明治20年(1887年)に改正案が広まると、裁判に外国人判事を任用するなどの内容に反対運動が巻き起こり、井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り分裂の危機を招いたため、7月に改正交渉延期を発表、9月に外務大臣を辞めざるを得なかった。この他、パリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進めていたが、条約改正と同じく辞任に伴い頓挫した。その際に井上の秘書として活躍したアレクサンダー・フォン・シーボルトは勲一等、兄アレキサンダーと共に交渉に関わったハインリッヒ・フォン・シーボルトには勲三等が後に与えられた。両名は医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男と次男である[5]。

閣僚を歴任
明治21年(1888年)に伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任、黒田清隆が次の首相になると、黒田内閣で農商務大臣に復帰したが、かねてより政府よりの政党を作るべく企画した自治党計画が翌22年(1889年)2月の黒田の超然内閣発言や周囲の反対で挫折、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱き、5月末から病気を理由に閣議を欠席して引き籠り、10月に黒田内閣が倒閣に陥ると辞任した。12月、悪酔いした黒田が留守中の自宅に押し入り暴言を吐く事件が発生、黒田に抗議している。
それからしばらくは内閣に入らなかったが、明治25年(1892年)8月8日に伊藤が再度内閣を組織(第2次伊藤内閣)すると内務大臣に就任、11月27日に伊藤が交通事故で重傷を負うと翌26年(1893年)2月6日まで2ヶ月余り総理臨時代理を務めた。明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発、戦時中の10月15日に内務大臣を辞任、朝鮮公使に転任して陸奥宗光と共に戦時中は伊藤を支え翌明治28年(1895年)8月の終戦まで公使を務めた。朝鮮では金弘集内閣を成立させ改革に着手したが、三国干渉によるロシアの朝鮮進出と朝鮮の親露派台頭、ロシアと事を構えたくない日本政府の意向で成果を挙げられないまま帰国した。後任の朝鮮公使三浦梧楼が10月に親露派の閔妃を暗殺する事件を起こし解任されると(乙未事変)、 特派大使に任命され次の公使小村壽太郎の助け役として再渡海、11月に帰国した後は静岡県興津町(現:静岡市清水区)の別荘・長者荘へ引き籠り、明治29年(1896年)の伊藤辞任まで目立った活動は見られなかった。
明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣成立に伴い大蔵大臣となったが、半年で倒閣になったため成果は無い。また、明治33年(1900年)の第4次伊藤内閣で大蔵大臣再任が検討されたが、渡辺国武が大蔵大臣を望み伊藤が止むを得ず承諾したため話は流れた[6]。

大命降下、晩年
明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢を初めとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥とも繋がりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している[7]。
大命拝辞した後は後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。明治40年(1907年)侯爵に陞爵した。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した時に尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復、明治42年(1909年)の伊藤の暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。
明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された[8]。明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車椅子の移動となる。大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。
生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日に財政面を主に書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している[9]。



ー 人物 -

業績
維新後については、制度を作りながら諸施策を進めていくといった、行政の舵取りが必要であったが、明治初期に重職に就いた者の中で理財の才能を持った者は、井上がその筆頭に挙げられ、財政の建て直しに大変な努力をしている。1度は官を辞職したが、長州系列の人物と革命の元勲としての威光で同藩出身の山縣有朋とともに過去の汚職にも関わらず絶大な存在感を示した。
外務大臣としての従事期間は長く、その間、条約改正に献身的な努力を注いでいた。その成果は次の大隈重信・青木周蔵・陸奥宗光らに至って現れて来ていると考えられる。外交はその国民の代表との長い信頼関係の構築の結果として醸成されてくるものであるから、国内での影響力と同じ尺度で評価する事は適切ではない。井上は維新政府の財政面から国家運営を見ていた為に、諸外国との戦争は極力避けたいと願っていた事が窺い知れる。
実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は岩倉使節団出発前夜の明治4年11月11日、送別会の席で井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている(佐々木高行の日記より)。尾去沢銅山事件に代表されるように実際に三井や長州系列の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為が当時から世間において批判され、貪官汚吏の権化とされていた[16]。
井上は三井財閥、藤田組などを通して第一国立銀行設立、三井物産創業、三池炭鉱事業の開始、台湾銀行、台湾製糖会社の設立、児島湾干拓事業、洞海湾拡張事業などを手がけ、石炭輸出による外貨獲得、日本の近代化を推し進めた。また、各財閥に家憲を制定して同族間の結束を固めることを強調、藤田家憲は明治9年、三井家憲は明治33年、貝島家憲は明治42年にそれぞれ制定、井上の尽力で3家は日本経済を支える財閥に発展した[17]。

逸話
仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸等多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている[18]。
恩義を忘れぬ情厚き面があり、旧藩主毛利家一族や長井雅楽、高杉晋作の遺族や、命の恩人の医師・所郁太郎の子孫に手厚く報いた。明治8年に高杉の愛人梅処尼が貧困に苦しんでいた所を有志を募り生活費を与え、明治14年から3年かけて寄付金を集め、明治17年に東行庵を建てて梅処尼を住まわせたこと、明治23年から26年にかけて毛利一族の結束を図り家憲を制定、明治25年から毛利邸建築に着工(完成は大正5年)したことなどが挙げられる。また、明治25年と明治34年に右田毛利家が経営する第百十国立銀行が経営危機に陥ると、伊藤らと共に財政援助を行い破綻を防いだ。第百十銀行は後に他の銀行と合併、山口銀行が誕生した[19]。
親友は吉富簡一(山口矢原の庄屋の生れ・初代山口県会議長・防長新聞創立、政友会を支援した)。高杉晋作と伊藤博文とは終世親しく交際していた。
欧米に負けない国劇の創造を目指した演劇改良運動の後援者であり、自らの私邸を天覧歌舞伎の会場として提供した。また歌舞伎役者の九代目市川團十郎がかつての養家から泣きつかれて背負いこんだ経営不振の河原崎座の借財整理に協力したこともあった[20]などとも親交を深めた。またその他の演芸家では、落語家の三遊亭圓朝、清元節の清元お葉、義太夫の竹本越後太夫などとも親交があった。
明治19年(1886年)2月10日、外務大臣として鹿鳴館での舞踏会に出席中、十数名の暴漢に襲われそうになったが、警護役の得能関四郎が応戦して11名を逮捕し、難を逃れた。この事件は得能の剣客としての名声を高めることとなった。
明治24年、九州の金田炭鉱を訪れた際、柏木勘八郎の引き立てで貝島太助と出会い、正直なその性格を見込んだ井上は不況で経営難に陥っていた彼を助けるため、毛利氏の財産を投資して(井上は家憲制定の件で後見人同然の立場にあった)貝島の窮地を救い、後に貝島の息子太市と鮎川の妹を娶わせ、その後の貝島財閥の繁栄を導いた。一方、毛利氏の家政は三井物産が担当、資金貸し出しを通して貝島の資産調査・炭鉱への介入を繰り返したため、貝島炭鉱の独立は大正9年(1920年)までかかった[21]。
明治35年(1902年)、莫大な借金を抱えた東本願寺に泣きつかれ、本山の放漫財政が赤字の原因と知ると、対策として末寺からの本山統制を主とした財団法人設立を企図した(東本願寺借財整理)。東本願寺の抵抗によりすぐに成功しなかったが、後に財団が設立された[22]。
明治44年11月、中国から製鉄コンビナートの漢冶萍公司総理盛宣懐が訪問した際、三井物産の上海支店長山本条太郎と共に漢冶萍公司の日中共同経営を考え、第2次西園寺内閣の内務大臣原敬に掛け合い資金援助を実現させた。翌明治45年に漢冶萍公司の株主の反発で盛宣懐が解任されたため事業は失敗に終わるが、盛宣懐が井上に送った称賛の言葉を綴った軸が洞春寺に残っている[23]。
美術品収集に熱心で、茶会に招かれた先で気に入った茶碗や掛物を「貰っておく」と言い、半ば強引に奪い取っていた。持ち主は権力者である井上には逆らえず、泣き寝入りするしかなかったという。この話を聞いた明治天皇は井上の茶会に行幸し、掛物を「貰う」と言い出し井上を狼狽させ、横暴をたしなめたという[24]。
ほぼ毎年遺言書を更新していた(そのうちの1枚がテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』で取り上げられたことがあり200万円の値がついている)。
鉄道庁は明治41年、長者荘への病気見舞客のため新橋及び神戸発の最急行を興津駅に停車させることにした[25]。

他人からの評価
その短気と怒声から「雷親父」とあだ名されていた。一方、右腕とする渋沢栄一には絶大な信頼をおいており、渋沢が近くにいる限り井上は語気を荒らげることすらなかったので、渋沢のまわりには雷は落ちないということから、彼は「避雷針」とあだ名されていた。ただしその渋沢本人は「本当の避雷針は井上氏」だったといい、どんな攻撃も井上が体をはって受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたと述懐している。
大隈重信は伊藤と井上の2人を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった……井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。短気だが飽きっぽくない。伊藤氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから、敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。井上は功名心には淡白で名などにはあまり頓着せず、あまり表面に現れない。井上氏は伊藤氏よりも年長であり、また藩内での家格も上で、維新前は万事兄貴株で助け合ってきたらしい。元来が友情に厚く侠気に富んだ人であるから、伊藤氏にでも頼まれると、割の悪い役回りにでも甘んじて一生懸命に働いた。井上氏がしばしば世間の悪評を招いた事の中にはそういう点で犠牲になっているような事も多い」。
林学博士・中村弥六によると「世話好き。一旦見込んだ人には身分や出身地の如何に関せず常に満身の誠意を傾注して世話をやいた」という。直情径行で曖昧を許さない。必要な場所に自身で出かけて行き、膝詰談判をした。意にそまぬ事があると一喝にあう。この一喝にあってそれっきり寄り付かぬ者、敵になった者もあるが、元来親切から出ているので、一喝にあっても怯まず、自ら偽らず自信のある者は後に出世した者が多い。
徳富蘇峰は「彼は官業反対論者なり。彼は徹頭徹尾民間が出来る業をお役人がやる事は非能率で民間の業を圧迫妨害する…」ものと考えていたことを紹介し、井上の合理主義者としての一面を評価している。
明治10年代(1877年 - 1886年)のドイツ公使アイゼンデッヒャーは井上について「前外務卿(寺島宗則)よりよく、温和で礼儀正しい人物であった」と述べている。


以上、Wikiより。



井上馨