周布政之助 (すふ まさのすけ) | げむおた街道をゆく

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周布 政之助(すふ まさのすけ、文政6年3月23日(1823年5月3日) - 元治元年9月26日(1864年10月26日))は、幕末の長州藩士。政之助は通称であり、諱は兼翼(かねすけ)という。また、変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。



ー 略歴 -
周布氏は益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。
政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。
来原良蔵や松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。政之助は天保の藩政改革を行った家老の村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権を意味していた。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎や高杉晋作ら吉田松陰の門下を中枢に登用したが相州防備の藩財政の悪化により失脚。しかし政権を握った坪井派が京都と長州の交易を推進したことが藩内の会所において疑心暗鬼をうみサボタージュが発生して失敗したことで再び藩政に復帰。文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた。守旧派に抗し藩政改革の起爆剤とする意図があったとされるが、ここにおいて村田派と坪井派の禅譲は終わった。
元治元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。



ー 備考 -
酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。また、高杉晋作が脱藩の罪で投獄された時にも、酒に酔って馬で野山獄に抜刀して乱入したとも言われる。
明治期、政之助の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。


以上、Wikiより。



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