白鳥長久 (しらとり ながひさ) | げむおた街道をゆく

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白鳥 長久(しらとり/しろとり ながひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての出羽国の武将。白鳥城主(後に谷地城に居城を移転)。通称は十郎。他に義国、武則などがある。



ー 生涯 -
出自ははっきりしていない。白鳥義久の子として生まれたという。現村山市最上川左岸を拠点とした国人領主。文武兼ね備えた名将といわれる。叔父・長国が長女を寒河江兼広、次女を寒河江氏一族の溝延氏に嫁がせていることから寒河江氏と同盟した。また、叔父・義広の娘を天童頼貞に嫁がせて天童氏と同盟した。
天文11年(1541年)、陸奥守護を務めた伊達氏の当主伊達稙宗・晴宗親子が争った天文の乱では、最上義守の援軍として稙宗方に参加した。永禄・元亀(1558年~1573年)年間谷地方面に進出し、谷地城主・中条長昌から室町幕府奉行衆を務めた名門中条氏を継承した[1]。
天正元年(1573年)、羽州探題最上義守、義光父子が家督相続を巡って争った天正最上の乱では、はじめは義守方に付いて寒河江氏が籠る寒河江城の攻撃に参加している。しかし、義光方が局地戦で戦勝を重ねると伊達輝宗に書状を出し、最上義光との和睦を仲介した。長久は和議の仲介者として一定の立場を得て、村山郡内の実力者と目されるようになる。天正5年(1577年)には、織田信長に使を出し名馬白雲雀を献上して誼を通じ、出羽守を得ようとするなど、外交活動を積極的に行った。長久のこうした動きを知った義光は信長のもとに志村光安を派遣して最上系図を見せ、刀工月山が打った槍十本を贈ったため、信長は「最上出羽守殿」と書いて返事した。そのため長久は出羽守を得ることができなかった。信長と誼を結ぶことで自己の権威の増大と領国の安定化を図ったが、この行動は、出羽統一を目指す最上氏の当主である最上義光の警戒を呼ぶこととなった。会津四家合考には、これを契機に義光はいかなる手段を用いても長久を葬ることを決意したと記されている。
天正12年(1584年)「重病の為、後事を頼みたい」という義光の招きにより山形城に赴いた際に謀殺された。長久を失った白鳥氏は混乱し、寒河江氏の援軍と共に義光と戦うものの攻め滅ぼされた。長久の血を浴びたといわれる「血染めの桜」が昭和初期まで山形城内に残っていた他、首塚が今に残る[2]。また、長久自身のさまざまな伝説、逸話についても、史料が乏しいためどこまで事実かは分からないものが多い。



ー その後 -
元和2年(1616年)33回忌法要が円福寺16世高岳(弘覚)法印によって営まれ、墓が建立された[3]。この塔は文化元年(1804年)東林寺28世大圓淳鏡と谷地名主衆中により再建され、現在に至る。


以上、Wikiより。



白鳥長久