但木 土佐(ただき とさ)は、幕末の仙台藩の奉行。本名は但木成行(ただきなりゆき)。なお「土佐」は通称であり、諱が「成行」である。
ー 家系 -
但木氏は本姓橘氏、遠祖は伊賀守重信に発し、下野国足利郡但木に8,000石を領し郷名を氏とした。重信は伊達家初代・伊達朝宗に仕えたなど諸説があり家歴は極めて古い。
政宗時代に入り慶長から慶安年間まで58年間にわたり職を奉じた但木重久が有名であるが、その弟・惣右衛門久清が分家した家が但木土佐の系である。正統の系は重久から行久へと続き、召出家として繁栄する。土佐の系となる別系は久清を祖とし、世臣となる新しい系で、久清の子但木重信は元禄7年(1694年)に若老、永代着座に列し、同8年(1695年)に奉行職に栄進して1,500石を領した。
土佐の死後、子孫は幕府から藩が鷹狩場として与えられた現在の埼玉県久喜市鷲宮地区に多くが移住し現在に至る。その中には検事総長(任期2006年-2008年)を勤めた但木敬一がいる。その他にも元日野自動車取締役など埼玉県久喜市の「但木」姓は土佐の末裔である。
ー 経歴 -
幕末の危機にあたり奉行に挙げられて藩政を執行し、軍事を総官した。土佐は前奉行・芝多民部の放漫財政の後始末をする為、倹約令を出し文久2年(1862年)10月には10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営することを宣言し、緊縮財政を断行。殖産興業政策により藩財政の立て直しを図る。
土佐は、佐幕開国の保守主義を主張し、尊攘派と対立した。藩財政が破産同様となっていて、尊攘派が主張するような藩主自らが上洛して中央で活動できる状態でないことを土佐は知っていた。そして幕府の政権奉還の時には病の主君・伊達慶邦に代わり会議に与った。
朝廷から仙台藩に会津討伐の挙兵を命ぜられた時、土佐は会津に謝罪させようとしたが果たせず、奥州鎮撫総督が東下して会津討伐を促したので、やむなく仙台藩は兵を動かした。やがて会津は降伏となり、藩主は総督・九条道孝の前に出て会津のために弁訴したが、下参謀・世良修蔵らはこれを許さぬばかりか、のちに奥羽一円を掃蕩する陰謀が世良の密書により発覚する。仙台藩強硬派はこれに激怒し、世良を捕縛して処刑し、同日、白河城を攻略。また、九条総督と醍醐参謀を捕らえて仙台城下に軟禁した。奥羽越列藩同盟を起こし、新政府軍に対して白河、相馬、越後諸道で徹底抗戦したが、秋田藩が同盟から離反した事が致命的となり、まもなく三春、相馬、米沢諸藩も新政府軍に降り、仙台藩も撤兵した。藩主は遠藤允信らの議を受け入れて降伏。
藩論一変して叛乱の責任者の土佐は縛につき、東京に拘禁される。明治2年(1869年)5月19日、叛逆首謀の罪で、土佐は坂時秀と共に麻布仙台屋敷において斬刑に処された。享年53。
以上、Wikiより。